2018年1月12日金曜日

「やばい」が「見れる」

朝刊の広告に改訂されるのは10年ぶりという「広辞苑第七版」がでかでかと出ていた。注意を引くように「新しい広辞苑は、やばい。」とのこと。「やばい」は「危ない」の意味でずっと俗に使われてきたが最近は肯定的な意味でも若者を中心に使われてきている。広辞苑も良くなって若者にも注目して欲しいという意味を込めたなかなかのコピーライトだ。

でも、その「やばい」の語釈について「②のめり込みそうである」とあったのにはあれ?と思った。
確かにそういう意味なんだが、もっと単純に「すごい」の意味で使っている気がする。私は先月の朝礼スピーチで「青雲会 やばい 人々」というタイトルで話した時に「やばい=すごい」の意味だとみんなの前で言っちゃったしな。まあ言葉って生き物で新しい言葉も出てくるし廃れて死語になるのも多い。「やばい」のように反対の意味すら出てくることもある。

私が気になるのは「ら」抜き言葉だ。TVでのインタビューを聞いていると半数以上の人たちが「見れる」「食べれる」「来れる」と言っていて字幕ではきちんと「見られる」「食べられる」「来られる」と訂正して出てくる。私は知識がないと思われるのが嫌だからきちんと「ら」を入れてしゃべるようにしているが、特に「見れる」などはそっちの方が言いやすいし意味も問題なく通るしで、そろそろ辞書に載せてもいいんじゃないかと思っている。まあ昨日の結婚式の話題でも30年一昔で、あと30年も経てば「見れる」は市民権を得て辞書に乗り、さらに30年経てば「見れる」が正式な表現になるかもしれない。「やばい」も30年ほど前から②番目の意味が使われるようになって来たということだしー。

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