2025年6月30日月曜日

代打ち

夕方、仕事も一段落しゆったりとした雰囲気が内視鏡室には流れていた。ふと見ると、並ぶンDrがパソコンでネット麻雀をしているじゃないか。まだ初心者だが「ネット麻雀もやり始めてます」って言っていたな。どれどれと見てみたら、クイタンという一番安い手をやっていた。2回ポンやらチーをしているのにまだ聴牌すらしていない。さらに驚いたのがラスなのに千点という安手を必死に上がろうとしていることだった。

「上がって次はオーラス、なんでそんな手作りをしているの?」と私は疑問を呈した。しかし、その意味すら分かっていないようだ。どうにか聴牌した手もクイタン千点でしかも待ちが69万待ちで9万では上がれないという格好だ。しかしこれが奇跡的に上がれた。でも他の3人とは5、6千点以上も離れている。戦略という視点が全然ないのよ。

すると「こてる先生、代わって打ってくれませんか」というので「どれどれ、私が手本を見したる」と代打ちをやってみた。もらった手はまあまあ。ドラは1枚で字牌はバラバラ。しかし序盤に白を対子にし他は両面がいくつかある。ペンチャンの1万2万落としを私はした。「ここは2万から落とすぞ」と当たり前のことを言うと、並ぶンDr「え、何でですか」と尋ねよった。「はあ?1万と2万では相手への危険度が2万の方が高い。だから危険な2万の方から切るのよ、当たり前だろ」と解説すると「へーーえ」だ。ふむ、初級者そのものだな。だから先ほどもただ上がるだけの打ち方をしていたんだ。

手が進み、とうとう聴牌をした。4索と白のシャンポン待ちだ。「ここは絶対リーチだ」「え・・」と反応が鈍い。「だって、今ビリなんだろ。リーチして出来るだけ手を高めてビリを脱出しないきゃいけないのよ」まったくもう、還暦を過ぎて麻雀を始めたはいいがまだまだ勉強不足だぜ。

ビリからのリーチに対して相手3人は引き気味だ。当然だろう、無理して打ってしまえば自分がラスになる。すると、1枚切れの白をツモった。「オオ!」リーチヅモ白ドラ一で満貫ありこれでビリ脱出出来たぞ。裏ドラを見る。なんと2枚乗ってハネマン、12000点に化けた。画面変わって成績表示が。なんと、トップになっていた。「うわぁ」と並ぶンDr。「ほうら、ちゃんと戦略を持って勝負したら勝てる時は勝てるのさ」と雀歴45年の貫禄を示せたのであった。エヘン!

2025年6月29日日曜日

暑いから・・カット!

暑い!一昨日には梅雨明けしたってよー。信じられない。6月中に梅雨明けってあるの?報道では昭和30年(1955年)6月24日に梅雨明けがあったそうだ。私の生まれる前じゃん。昨日一昨日に入院させた患者さんは半分以上が熱中症や脱水がらみだった。そら、そうなるわな。

こんな日は外に出ず、エアコンの効いた自宅の部屋でまったりと過ごすに限る。外に出て庭いじりとか歩いて買い物なんか危ない。おや、近くの小学校では子どもたちがサッカーをやっている声が聞こえる。いやー、子どもは元気だねー。思えば自分らが小学生の頃、夏休みは真っ昼間から公園とかで遊んでいたものだ。真っ黒に日焼けして半ズボンだったからパンツのところだけ白くてね。熱中症って言葉もこの20年ちょっと前くらいからだよな。あの頃はまあ「日射病には気を付けよう」なんて言われてはいたが、今ほど熱中症熱中症って大騒ぎするほどではなかった。

TVでは朝5時過ぎにドジャース対ロイヤルズが始まっていて、ドジャースは相手ピッチャーの軟投派ルーゴの変化球を打てず9対5で負け、大谷もヒットは1本も打てなかった。終われば他に見たいようなTV番組はなくなってしまった。それで、一昨日、日テレ系の金曜ロードショーで私の一押しの名作「カリオストロの城」をやっていたのでその録画をちょこっと見てみようとしたら・・・ヤバいんだよね、この作品。オープニングを見てカーチェースのシーンを見たらもう最後まで見てしまう、毎回その繰り返しだ。こてる日記でも感想は1ヶ月前の5月30日に書いたとおりなんでもう書かない。あの時、この日のロードショー放送があると知っていたらみんなにも「見てー」って宣伝していたのになぁ。

午後は散髪に出かけた。6月8日に切ってもらったばかりなのに両サイドの髪が伸びてそれがうざくてねー。↓上がカット前、下がカット後。

いやー、すっきりした。あんまり切りすぎると、カールにいつも「おかしい」って言われるんでこのくらいにした。1ヶ月以内にまた切ってもらったのは久しぶりだったけれど、梅雨も明けたし夏には短めの髪がやっぱりいいっす!

2025年6月28日土曜日

桜島を見て食べる

今夜はシェラトン鹿児島の最上階19Fにある「FLYING HOG GRILL」で食事を予約していた。6月は二人の結婚の月でその記念の食事だ。どこにしようかで「シェラトン鹿児島にはまだ一度も言ったことがないからそこにしよう」ってなったわけ。先週半ばにネット予約を取ろうとしたら土曜日は翌週の今日しか空いていなかった。で、アルコールも少しは飲むつもりだったので車では行かず、市営バスで向かった。

だが、上荒田町まで直接行く便はないので千石馬場で降りて、鹿児島中央高校、甲突川を通って向かった。中央高校玄関前では母校を前に記念写真もー。
夕日が直接当たったせいで、そのタイミング、くしゃみが出てしまった。(急に暑く、あるいは急に寒さを感じると私はくしゃみが出る癖があるんだ)

夕方といってもかなり暑く、ホテルのロビーに入ったらクーラーがしっかり効いていて気持ちが良かった。最上階の19階のレストランは大きな窓から桜島と甲突川と錦江湾が一望に出来た。
いやー、この高さから見下ろす風景ってほとんど見たことがない。実にいい。料理は鹿児島産の肉、魚、野菜などをモチーフにしたものでほんの少しずつしかでて来ないけれど後で満腹になる。その前に生ビールで乾杯!だ。私はサントリーの「香るエール」というのにした。カールはその後ワインも頼んだ。
食事しながら語るのは「もう36年にもなるんだ」という感慨だ。人生の半分以上を費やしている。今後はこうした外食もちょくちょくしよう。それにしてもここのレストランは眺めがいい。眺め代で若干お値段も高いのかな。桜島が30分おきくらいに色合いが変わる様子がよく分かった。
ここで噴煙を上げてくれたら言うことはなかったがさすがにそれはぜいたくだろう。良く晴れてくれ、最初少しあった雲もなくなり、雄大な桜島の雄姿を眺めつつ飲んで食べて満足だった。2時間半ほどで下に降り、タクシーを呼んでもらいホテルを後にした。このレストランまた利用することがあるだろう。いい夜だった。

2025年6月27日金曜日

天文館を走る理由の違い

この10年以上、 毎年一着は新しいアロハシャツをカールが買ってきてくれている。今年は沖縄のかりゆしウエアの中から「涼しげで清潔感があるのを選んだ」と白地にブルーの模様が入ったもので今日初めて着ていった。病院に入る時、たまたま可愛いんだ理事長といっしょだった。すると私の服を指さし「いいね」と言ってくれたよ。理事長が服のことで褒めてくれるってちょっと珍しい。まあ、これまでの経験上、カールが選んだものはまず間違いがない。外来でも何人かのナースといっしょに写真を撮ったりした。↓はベテランのタッピーNsと。

夕方19時前のMBCのミニ番組「あの日のふるさと」は60年安保の話題だった。安保改定闘争の様子で前年の参院選前の岸総理来鹿、改定年6月の反対デモは東京だけでなく鹿児島でも相当大きかった様子が画面越しに伝わって来た。ピークの6月16日は天文館通りに鹿大の学生3000人が集まってデモをしたんだとか。3000人と言ったら鹿大生の大部分じゃないか。動画を見ればその頃は警察と学生は緊張関係にあったのが分かる。
さらに驚いたのがアップの画面で「鹿大医学部」というプラカードもはっきり写っていたことだ。
いやいや、私が鹿大医学部に入学したのは1978年で、その頃は学生運動や安保反対運動なんてほとんどなくなっていた。笑ってしまうのはその年の11月、鹿大祭ってのがあって、みこしパレードを大学から天文館通りまでやっていて、医学部1年生もみこしを作ってパレードに参加したのだが、それを警官らが保護、整理してくれていたのだ。↓先頭が若かりし日の私である。
わずか10年ほどで学生と警察、機動隊との関係も180度逆転していた。天文館通りを堂々と移動したのは、それから25年くらい経過しておはら祭りの前夜祭で病院から踊り連で参加したくらいかな。同じ若いエネルギーでも時代とともにその方向性はがらりと変わってしまう。MBCの「あの日のふるさと」はそういうことも教えてくれる貴重な番組だよ。

2025年6月26日木曜日

雨のせいだけじゃないはずよ

ドジャース対ロッキーズは山本由伸が先発で投げて実にいい投球だった。5回まで投げて打たれたヒットは1本のみ。投球数も多くなく上手く行けば完封も狙えるほど。しかし相手投手のドーランダーという若手も速球に力がありドジャース打線も打ち崩せない。だいたい山本が投げるときはなぜかドジャース打線は振るわない。6月は3連敗しているが投球内容自体はそんなに悪くないんだ。

で、6回に入ってドジャースは大谷がチーム2本目のヒットをようやく放ち、2死にはなったがランナー二・三塁のチャンスを迎えていた。そこで左のマンシーが打席に入った。ここ最近はマンシー、調子良くてホームランもよく打っている。ところが突然、画面が外野方面の真っ黒い雨雲を映し出した。うん?と思った。すぐに画面は投手対打者の画面に戻ったが、どうやら雨が降り出しそうで実際に降り始めた。マンシーは2ストライクまで追い込まれ、速球に対しファールでねばっていた。さらに雨は急速に大粒になり画面からも雨粒がはっきり見えるほどになっていた。観客も席を離れ始め、ちょっと野球をする雰囲気ではなくなっていた。しかし2アウト2ストライクの場面で試合を中断させるのはなんとも味が悪い。あと1球でこの回の決着は付きそうだったし、試合続行させた審判の判断に異論はなかった。
で、ドーランダーの投げた速球にマンシーは高々と内野ポップフライを打ち上げた。あー、こりゃダメだ。相手セカンドがオーライって腕を広げ捕球態勢に入っていた。だめだったかーと思って画面を見ていると、あれ?あれ!セカンドがキョロキョロし始めた。
大粒の雨に紛れて球が見えなくなったようだ。これは・・ファーストも動揺していて球を見つけられずにいると、そのすぐそばにポトンとボールが落ちた。マンシーは一塁にすでに到達し大谷ら走者2人はホームインし、なんとドジャースがラッキーな2点を先制した。
そして試合はここで雨天中断。私もしばらくどうなるのかとチェックを入れたがなかなか試合は再開しない。1時間待ってもまだだった。こんな時には先発ピッチャーはもう試合再開されても投げないのがメジャー流だ。いったん体が冷えて再び動かすと筋肉に負担が大きいのだろう。1時間28分後に試合再開されたが山本もドーランダーももう投げなかった。

で、結局そのラッキーな得点がきっかけでドジャースは得点をその後も重ね8対1で勝ってしまった。山本は5回を投げきっていたので勝ち投手となった。可哀想だったのはドーランダーだった。内容では山本と全く五分。速球では優っていたくらいだったのに。

しかし、何て言うんだろう。偶然やラッキーが確かにドジャースに味方したけれどドジャースってチームやはり隙がないのよ。もしかしてロッキーズに同様のラッキーがあったとしてもそれを活かしきって勝ちにつなげられない可能性が高かった気がした。この時点でロッキーズは18勝62敗という負けの記録を作りそうなくらい弱いチームだ。運やツキは平等にやって来るがそれを活かしきれないチーム状況なんだと思う。これって大谷がいたときのエンゼルスがそんなチームだった。私は毎回観戦するたびにイライラしていたもん。大谷はいいけどチームは負けってパターンが多くてさ。「大谷は活躍しました、なおエンゼルスは負けました」の「なおエ」って言葉も生まれたくらいだ。

いや、大谷はドジャースに行って大正解だった。珠玉の才能もそれを活かせる場にいないと輝きも半減だ。ロッキーズには不運なシーンを見てそんなことを私は思っていた。

2025年6月25日水曜日

大変だったのにそうは見られないって

水曜日は外来&救急の担当日で、午後は会議が2つある。しかし、月に1回くらいは外来と救急が忙しくて会議にまったく出席出来ないことがある。今日がまさにのその日だった。

午後に突入してすぐに救急車が来た。あいちゃー、近隣病院から下血の緊急内視鏡の依頼もあってそれもすぐにしなければならない。救急車の患者をさらっと診察し、採血、画像検査の指示だけ出して、内視鏡室に向かった。内視鏡室の受け入れ体制も、このタイミングでないと緊急内視鏡を入れ込むことが出来なかったのだ。

浣腸だけしてさっと大腸内を見る。S状結腸、下行結腸まで観察して血液付着はそこにはなく直腸のみであると判明し、きっと直腸潰瘍出血だろうと目星をつけ、さらには邪魔な便塊を自ら摘便して観察しやすくした。すると、あったよ出血源が。ここまでくればもう勝ったも同然。クリップを掛けて止血で内視鏡を終了した。
本来なら入院させても良かったのだが施設に帰すのも可能だ。今回は帰した。すぐにも救急患者の入院指示が待っていたからだ。その時間はちょうど会議時間でピッチに「そろそろ会議開始です・・」と来たが当然断った。

その後、夕方までに2台の救急車が来て全て私が当たった。今日だけで3人の入院だぁ。やはりあの時下血患者を帰して正解だった。後で紹介Drから「水分の可否と内服薬の開始時期はいつ?」との問い合わせがあったが、その指示だけで済んだので、入院でなくても良かったのだ。

なにかにやで仕事が終わったのが17時半。終業時間ぴったしよ。あれぇ〜、何かそのまま素直に帰るのはくやしいなぁ。外から見たら、まるで何事もなく帰宅する定年前の公務員のおじさんみたいじゃないか。時間通りに仕事をこなし帰宅する。当たり前のことなんだけど、そう見られたくないからこうしてこてる日記に残しておくのだ。えへへ・・。

2025年6月24日火曜日

ハナビが家ネコ化

先週に続いて今日の火曜日午後を半休にし、銀行に行って用事を済ませた。銀行や役所がらみではどうしても本人確認が必要な場合平日に「出頭」しないといけない。私みたいに土日は休みだが平日はフルに働くパターンだとわざわざ休みをこうして取らざるをないのよねぇ。

帰宅すると、ネコたちのお出ましだ。最近はハナビが少しずつ人懐こくなってきていて、家の中でリラックスしていることも多い。テーブルの上でのんびりと寝そべるのは1日のうち必ず1回はあるな。以前はどこかしら気が張っている態度が多かった。

そしてゲンちゃんとのケンカも頻度は減ってきている。ハナビが絨毯の上で休んでいるゲンちゃんに近寄ったら、さすがにゲンちゃん、警戒態勢を取った。こうなるとケンカにはならない。
ハナビはゲンちゃんの背後しか狙わないんだ。上の写真から約1分後が↓だ。このパターンはハナビがゲンちゃんの尻尾にちょっかいを出す。これ、今回は動画は撮っていなかったが6月2日の日記にアップしたのとそっくり。

そして家に用事でやって来たお客さんに二匹がテーブルの上で同じような仕草を・・。誰でしゅかぁ〜。
まあ逃げることなくお客さんを「歓迎」してくれましたけどねー。だんだん、ハナビもゲンちゃんと似たような行動もするようになった。本当の意味でこてる家のネコになりつつあるわ〜。

2025年6月23日月曜日

「日本の兵隊助けますか?殺しますか?」

今日、6月23日は沖縄では学校や役所は休みになる。いわゆる「慰霊の日」だ。沖縄では戦没者追悼の行事がある。NHK始め、この日に合わせて沖縄戦のドキュメンタリーや1971年の東宝映画「激動の昭和史 沖縄決戦」放送など特集番組があり、今年はそれら大部分を視聴した。

いや、沖縄戦の番組って見るのがつらい。住民らを巻き込んだ見込みのない戦いでひたすら悲惨な状況が続くんだ。当の沖縄出身のカールは「私は見たくない」って見ようとしない。カールは以前は沖縄の南部方面に行くのも嫌がっていたな。平和の礎のある平和記念公園に行ったのもつい最近になってだった。私は初めて沖縄に出張に行った昭和63年(1988年)に本屋で沖縄戦に絡む書籍を数冊購入し衝撃を持って読みふけた時期がある。「もし自分が沖縄戦の最中にいたとしたら」と想像するとやはり希望が持てない。どこかしこで自分が死ぬイメージしかないんだ。

今回の特集番組で特に印象に残ったエピソードがある。慰霊の日の6月23日前後で組織的な戦闘が終わっても多数の日本兵、住民が追いつめられた南部のガマ(洞窟)に潜んでいた。米軍がスピーカーで「みなさん出てきなさい。日本軍はもういません」といって投降を促すのだが皆なかなか出来ようとしない。米軍を怖いと思うのは当然だが、捕虜になろうとすると怖いのが日本兵でもあるのだ。投降しようとする人を背後から撃ち殺そうとするからだ。でも、住民の中に息を決して投降する人が出てきて固唾を呑んで背後か見守る住民らこう言った。「みんな、運動会の見物くらい人が出てるよ〜」これで助かったのだ。

そして南部の巨大壕「轟の壕」には600人ほどの日本兵、住民が潜んでいた。そして住民が壕を出るのを阻んでいた日本兵たちの姿は入口付近からは消えていた。
で、当時25歳の女性の証言だ。「上からマイクで『戦争は終わりましたからね。みんな出てください。私たちは助けに来ましたから心配しないで出てください。あなた方 ここにおったら明日は爆破かけますよ。死にますよ』ということ言われたからじゃあ出ようじゃないかとあっちこっちで盛り上がったわけです。入って右側のところが入り口から右側が友軍で左側、一般民でしたからですね。一般民のところはみんなざあっと出たわけですよ。」

もう一人中年男性の証言があり、「死ぬんなら青空を拝むんだから本望だと言いながら上がっていったわけです。そこにアメリカの少尉が来て「下に日本兵いますか?」と尋ねる。それに「たくさんいる」と盛んに言ってたんですよ。そしたらその兵隊が「日本の兵隊助けますか?殺しますか?」まどろっこしい日本語で言いよったんです。
そしたらね、一斉に「殺せ 殺せ」って言うんですよ。だからものすごいとたんにドキッとしましてね。本当にこっちも腹が立ってるんですけどね、そんなにまで恨んでアメリカに対して『殺せ』と言うことに対してはびっくりしまして恐ろしいことだとパッと気がついたんですよ」

今、沖縄の人たちが日本特に日本本土に対して複雑な思いを抱いている原点がここにあった。日本人を守るはずの日本兵の方が怖かった、恨むほどだったと当時の沖縄住民は証言しているのだ。しかも一斉に「殺せ」とほとばしるほどまでに。その中年男性は「その根本は戦争、敗戦それが原因だ」とは述懐しているが、同じ戦争でも味方をなじる心境にさせたという事実は無視出来ない。「沖縄戦」は日本人皆が知るべき歴史的事実である。

2025年6月22日日曜日

「もっ韓」休刊だって

韓ドラを本格的に見るようになったのは2007年の冬からだった。KKBで毎週土曜昼に「冬のソナタ」を放送していて録りだめしていたのを、見始めたら最後、一気に最終20話まで見ないと気が済まなくなり、病院職員から借りたDVDを繰り返し視聴したものだった。そしてマイ冬ソナブームは続き、それに関する書籍をあれこれ買い求め読みあさった。青雲職員と「冬ソナ会」なる韓ドラ好きな連中との飲食会も開いたりした。その中で、韓ドラ雑誌も紹介されその中から「もっと知りたい! 韓国TVドラマ」という雑誌を定期購読するようになった。この雑誌は韓ドラに登場する俳優、女優へのインタビュー記事がメインで他にもドラマにまつわる様々な話題を提供してくれ、2ヶ月に1回の発行が待ち遠しいくらいだった。で、今日その第127号が届いた。いつものようにパラパラとめくって最終ページの編集後記を見て「ええっ!」と思わず声を上げた。

「休刊のお知らせ」

いつも「もっと知りたい! 韓国TVドラマ」をご愛読いただき、誠にありがとうございます。さて、読者の皆さまにお知らせがございます。「もっと知りたい! 韓国TVドラマ」は、この127号をもちまして休刊することになりました。2003年8月の創刊以来、小誌は韓国ドラマと俳優を中心に、韓国エンタメ界の最新情報をより早く、より正確にお伝えするために頑張って参りました。その間、小誌をご愛読くださった読者の皆様に心より感謝を申し上げます。また、この雑誌が出来上がるまで、さまざまな形でご協力くださった関係者の皆さまにも深くお礼を申し上げます。突然の休刊案内で大変恐縮でございますが、何卒ご理解いただけますようお願い申し上げます。これまでのご協力と応援を胸に刻み、今後またお目にかかれる日が来ることを願うばかりでございます。皆さま、22年間、本当にありがとうございました。

2025年6月 編集長 李 秀香

あれ〜、休刊だってぇー。この18年、毎日のように手に取っては韓ドラ情報を仕入れ、繰り返し読むものだから、例えそのドラマを視聴しなくてもどんなドラマかはおおよそ把握出来ていた。実は最新の20巻くらいを1階トイレ横の置き棚に置いていて便器に座っては読みふける習慣が付いていたのだ。もともと共同通信社が発行し(のちメディアボーイへ移管)、他の韓ドラ雑誌に比べやや格調が高く、とにかくインタビュー記事が多く、写真もカメラマンがしっかりと撮ったものが多く綺麗だった。しかしここ最近、雑誌のページ数がかなり薄くなってきていたのにはさすがに気がついていた。この2年ほどは96ページで、それ以前が112ページ。10年ほど前は144ページはあった。さらに最初の何年かは180ページ以上が多く、「チャングムの誓い」が特集された第7号など196ページもあって最近のもののちょうど2倍ものページ数だった。それでいて当時は定価が1260円、今は1650円もしていた。↓が第1号から第13号まで並べたものだ。「冬ソナ」のペ・ヨンジュン、パク・ヨンハ、「オールイン」からイ・ビョンホン、「天国の階段」のクォン・サンウなど当時の韓ドラスターらがどアップで表紙を飾っていた。女優の表紙は少なく、読者層が女性だったからか中身も俳優中心の作りだった。

↓が昔と最新刊の厚さ比較。まさに倍量の差がある。

どうして休刊の憂き目にあったのか。これはもうネットの影響が大きいだろう。わざわざ雑誌を買わなくてもネット界にドラマの情報はいくらでも転がっている。いや、それよりもこの10年ほどのドラマのネット配信の影響が一番かもしれない。私が特に熱心に韓ドラを見ていた2010年以前は韓国で放送されたドラマを見るには、DVD発売や貸し出し、そしてTV放送が始まるまでおよそ1年ほど待たねばなかった。ちょうどその頃雑誌で記事になってリアルタイムに両方を楽しむ感じだった。ところが最近は現地放送された翌日くらいにはNetflixやAmazon Primeなどですぐに配信され視聴出来るようになった。そのドラマのことをよく知りたいと思っても雑誌で取り上げるのは早くても数ヶ月後だ。となると、視聴し終わりやや熱が冷めたころにそのドラマの詳しい情報や俳優のインタビューを読んでもちょっと遅いなぁと思うことが多くなった。視聴している前後に雑誌に載っているような記事を読みたいのになんかタイミングがズレてきていたのだ。

私はそれでも数年前のドラマ記事を参考に面白そうなドラマをあえて見ることもあったが、これだけネット配信でのドラマが多くなると最新話題作に引きずられやや古めのドラマまで見る余裕はあまりなくなってきている。「もっ韓」の休刊も時代の流れなのかなぁ・・・。

2025年6月21日土曜日

それ帯状疱疹?虫刺され?

朝はドジャース対ナショナルズの試合をTV観戦をした。カールはというと、左の脇腹が「なんか虫に刺されたのかしら、いや、もしかしたら帯状疱疹かも」と心配して皮膚科受診に向かった。私が見るに帯状疱疹よりは虫刺されかなぁ。でも帯状疱疹って後からブツブツが増えてかなりひどい形状になることもある。カールはヨーコバーバがそのために体幹がかなりやられてひどい目に遭っているので気が気でない。「明日は日曜だし帯状疱疹だと大変だから皮膚科に行く」という心境だったのだ。私も「やはり専門家に診てもらった方がいいかも。帯状疱疹なら抗ウイルス剤を1週間内服する必要があるしー」と同意したのだった。

ドジャース対ナショナルズは意外に接戦になっていた。ナショナルズは2019年にワールドシリーズ優勝してから主力選手が散らばってから低迷、若手中心のチームになって今年も11連敗などして苦戦を強いられている。しかし最近持ち直しつつありドジャースも油断は出来ない。それにしても大谷最近調子が上がってこない。ヒットもホームランも出ない。今一盛り上がらない観戦をしていたらカールが帰って来た。

「もうさー、診察室に入って脇腹見せるなり『あ、帯状疱疹じゃありませんよ』って帯状疱疹のタの字も言っていないのに院長先生にそう言われてしまったのー。単なる虫刺されだってー」いやー、だったら良かった、安心だ。で、もらってきた軟膏が「ベトノバールG軟膏」というヤツで、ハテこれは・・成分を見たら「リンデロンVG軟膏」そのものだった。だったらうちに2、3個は余りがあった。

まあ私が自信を持って「これは虫刺され、リンデロンでも塗っておけばいいさ」と言えればカールに無駄なことをさせずに済んだのにねぇ。この辺りがたくさん皮膚病変を見てきた専門家との違いだ。まあ、同じことは内視鏡所見を一目見て「これは〇〇だから大丈夫」って私には言えても、そうでない他科の先生には判断しかねるってことか。餅は餅屋に任せれば安心ってことだった。

2025年6月20日金曜日

カリーナとデンコー親父の思い出

今日の外来にはずっしり師長が付いていた。そこでちょいと話題になったのがある女性患者の名前で、実際は漢字表記だが「セレナ」であった。

「今風ですね」「何か車の名前みたいだな」「ああ、ええとセ・・リカでしたっけ」「うん、トヨタのセリカとカリーナって兄弟車があったがそれの合成みたいな名前だ」

そう、私は初めての車が白いカリーナ(二代目)だった。ハードトップという2ドアで真ん中にピラーのない当時流行っていた型の車だった。私が高校3年で受験勉強をしている時、デンコー親父が「いいか、こてる。お前が国立の医学部に入ることが出来たら車をしかも新車で買ってやるぞ」と発破を掛けてきた。ただ、そんなことを言われても高校生にとっては別に車なんか興味もなく、ただ早くつらい受験勉強から解放されたくて頑張っていただけだった。首尾良く合格出来てもすぐには車に興味はなかった。1年生後半になって自動車学校に通いだし、路上運転をし始めた頃になって、俄然車に興味が湧いてきた。確か新車を買ってくれると言っていたな。親父はトヨタにずっと乗っているし、まあトヨタの中から手頃な車を選びたい、とカリーナという車に目星を付けた。免許を取ったのは1979年1月で早速車選びに入って親父に「カリーナがいい」と伝えていた。

ある日、学校から帰ってみると、車が来ていた。デンコー「おい、てる、これでどうだ」と見たら、何とカリーナはカリーナでも中古の初代カリーナだった。しかも色が茶色のダサいヤツ。私は最初からオートマチックトランスミッションを希望していたこともあって「イヤだ、これは。それにとーちゃんは新車を買ってくれると言っていたじゃないか」と、ぶーたれた。新車がいいなんて私ではなく親父が元々そう言っていたのだ。約束が違うじゃない。↓はネットから拾ってきた画像だが、まさにこの車と同じ型、同じ色だった。
さすがに親父も仕方ないと思ったのか新車のカリーナを買ってくれることになった。しかし当時は排ガス規制のためにエンジンがパワーダウンされていて加速が弱い車種が多かった。それも分かっていたのでカリーナの排気量1600cc、1800cc、2000ccの中で私は1800ccを希望した。オートマチックはパワー不足も予想されたからだ。しかし親父は「だめだ学生のお前にぜいたくはさせられん」と1600ccでいいと主張した。その時のセールスマンも「1600でオートマはまず出ない。初めて売りますよ」と言っていたくらいで、1800は5万円高いだけだったが、親父はゆずらなかった。新車を買ってもらうという点は約束違いでもなく私は受け入れるしかなかった。

車は春休み3月下旬に届いた。しかしその時私は親戚のバタフジ従兄のいる滋賀医科大に遊びに出かけていて、初めて乗ったのは数日後だった。まあ初めてのマイカーで単純に嬉しかったな。
ただ、先に試乗していたデンコー親父がこんなことを言いやがった。「あん(あの)車はアクセル踏んでも全然スピードが出ん(出ない)。どんくさいのはお前に似たからだ」な、なにーーっ!だから排気量をもうちょっと大きくして欲しいと頼んだんじゃない。それを私のせいにするとは・・。全くゴーイングマイウェイ、自分がえらくて他人をけなすのは全く平気なデンコーらしいエピソードであった。

それを聞いたずっしり師長は「面白いお父さんだったんですね」だって。違うってばー。

2025年6月19日木曜日

人文字作るには我慢が必要

昼休みに病院防災訓練があった。病院隣のさわやか薬局裏の駐車場に集合し、消火器訓練などやったりするのだが、今回はそれが終わった直後、さらにサザンブルーのローンガーデンに移動し、開院45周年の人文字を作ることになっていた。ちょうど5年前も40周年の人文字を作って撮影した。ただその時の私は内視鏡検査が終わらず参加出来なかった。

例年は5月と11月に訓練はあるのになぜか今年は6月でしかも梅雨の晴れ間でえらい暑かった。日差しが強く帽子やほおかむりしている職員もいた。で、芝生に移動し事前に下書きされた4と5の数字の上に立った時には帽子もマスクも全部取り払うよう指示が出て直射日光直撃と相成った。

↑写真の私の背後にいるお方が可愛いんだ理事長。グラサンがマッチしていかにもドンって感じ。で、みんな集まってどこから写真を撮るのかと思いきや、業者が用意したドローンが飛ばされ、それから撮影するらしい。
隣で、信号Drが「ドローンって英語のdroneに由来し、元々は「雄蜂」を意味なんですって。この前TVで解説されていました。確かに音が蜂の羽音に似てますねぇ」とブォーンという羽音が頭上からする中語ってくれた。今ではドローンは爆弾も落とす不気味な雰囲気すらある。撮影には10分以上かかり、途中から理事長は「おーい、もういいじゃないかー、暑いぞー」とぶつぶつ不満を言い始めていた。いや、みんなそう思っているはずだが正直には口に出せない。
ドローン操作者はクスノキの木陰で操作をしているもんだからなおさら文句も言いたくなる。
ま、来月にある45周年開院記念パーティに使う写真であって、今週はこの他にも理事長や私を始めインタビューなども行われた。良いもの作るには多少の我慢も必要だ。14時過ぎてようやく「OKです。終わります」の声に、みんなホッとして、また病院へ戻っていったのだった。

2025年6月18日水曜日

塩瀬監督を偲ぶ

元鹿児島商業野球部監督で夏の甲子園ベスト4の実績もある塩瀬重輝さんが亡くなったと南日本新聞に大きく出ていた。 MBC(南日本放送)でも映像付きでニュースになっていた。

塩瀬監督を知ったのは1986年(昭和61年)の夏の甲子園の時だった。久しぶりに甲子園出場を果たした鹿商の監督として準決勝まで勝ち進み、鹿児島県二度目のベスト4進出で当時の県民を大いに湧かせたものだった。あの時の鹿商は優勝した天理、準優勝の松山商に匹敵する力があった。その証拠に秋の国体では優勝をしている。

私とは医師と患者として、そして高校野球好きとして20年来の付き合いだった。会えばたいてい高校野球の話題になり、外来がヒマだったら診療そっちのけで高校野球談義をしたものだった。特に日曜当番で他に患者さんがいなかったときなど30分とは言わず語り合う羽目になり、終わって監督は「いや〜、良か先生に出会った」と喜んでくれていたなぁ。こてる日記ではこれまで「シオシゲ」監督「シオシゲ」さんの名前で何度も登場している。→https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/search?q=シオシゲ

8年ほど前の塩瀬さん↑。後ろは加治木高校時代の教え子でもあるシホねえNs。

諸事情で鹿児島市内の病院に転院療養となって2年以上が過ぎていた。80歳も後半になっていたし、今回のニュースでは驚くより「そうか・・やっぱり」という気持ちだった。青雲会病院に入院中に甲子園大会があった時など、観戦に熱中し「TVカードがすぐになくなってかなわん」とぼやいていたなぁ。野球が好きで若い頃は広島商、中京など伝統強豪高に手弁当で出向いてどのような練習をすれば勝てるのかなど教えを請うこともしたそうだ。

最近鹿児島県の高校野球は神村一強だが、10年くらい前は「小田(神村監督)君にも地域密着の態度で地域に愛されるようにしないといけないと言いたい」と私には語っていた。その声が届いたかどうかは知らないが、神村学園が全国的な強豪高になって2年連続夏ベスト4を達成したと知ったらどうだったかな。病状からしてTVは見ることは出来なかったはずで、出来ていたらきっと大いに喜んでいただろう。鹿児島の高校野球に大きな足跡を残した(8年ほど前かな、「そう、ネットでも評価されていますよ」とパソコン画面(↓)を見せたらニヤッとして満足げな表情だった)塩瀬監督のご冥福を祈ります。

2025年6月17日火曜日

インプラント終了

 いやー、大谷、1回だけの投手復帰で1点取られはしたけれど、なかなかいい投球ぶりでよかった。まさか100マイル(160km/h)以上も球速が出るとはねぇ。シンカーも良かったし今後に大いに期待が持てる内容だった。

今日は午後は半休を取っていた。インプラントの最終段階に来ていたからだ。14時半に歯科医院に行き、仮歯を外し、セラミック製の本物のインプラント歯を入れてもらった。どれがインプラント歯か分かるかな?(下の銀歯の上にある2本の歯がインプラントである)

だが、私は入れてもらったにも関わらず、そのことに気づかなかった。レントゲン写真を撮ってもらったのにねー。
というのも、先月仮歯を入れてもらってからは、ほぼインプラントと変わらなかったからだ。仮歯が本歯に代わっただけで違和感がなかった。今後はまたしばらくは調整が上手くいっているかまた何回か通って終了だ。部分入れ歯の時とちがって食事がまったく違和感なく出来て、入れ歯洗浄なども不要なのはまったく有り難い。私の場合結局7ヶ月かかったが、治療期間がかかりすぎるって感覚はなくなっていた。

帰宅してほっとしたのか自然と仮眠を取っていた。夜は空港まで沖縄から帰って来るカールのお迎えだ。その前に部屋の掃除もしておこう。帰りの車でカールの話によると、病院の待合室でヨーコバーバが大谷が登場するのをちゃんと分かっていたという。多少の認知があっても大谷の存在って大きいんだ。かつては長嶋茂雄がそうだったかもしれないが、日本人にとってのスーパースターは今は大谷翔平、彼で間違いないネッ!

2025年6月16日月曜日

大谷、投手復帰だってヨ〜

夕方のニュースで「明日のパドレス戦で大谷翔平が1イニングだけだが復帰登板をする」とあった。これには驚きと戸惑いを感じた。確かに投手復帰に向けて準備中とその練習の様子も逐一メジャーリーグ関連番組で報道されてきていた。しかしシミュレーションピッチングを繰り返しているだけで、まだ本番には若干時間がかかるだろうというのがもっぱらの意見だった。しかし、ドジャースの投手陣の不足もあり、また昼間に模擬投球、いったんクールダウンして夜にDHとして調整するというのがまるでダブルヘッダーに備えているようで体力の負担があったということで大谷自身が実戦投球を希望したそうだ。なるほど、実際に1イニング投げてその後DHとして打席に立つ方が体への負担も軽いだろう。経験も積めるわけだし、徐々にイニング数を増やしていけば1ヶ月くらいで先発本番OKだろうて。

このニュースの後、NHKがBS放送から総合放送へ急遽切り替えるってなったし、ネット界でもこの話題で持ちきりになった。それだけ大谷の二刀流復活への期待は大きいということだろう。NHK総合での放送で思い出すのは、昨年ポストシーズンの対パドレス戦で2勝2敗同士で最後の一戦が総合での放送だった。鎌倉観光をしていた私はスマホ片手に歩きながらNHKプラスで実況を見ていた。ワースポ&MLBでの解説の人が「新幹線の中はみーんなスマホでNHKプラスを見ていたいましたよ」と証言していたが、私だけでなくみんなもそうだったかと思ったし、実際の視聴率も20・3%と異常なほどで史上最多となる1290万人の視聴者数を記録したのだった。これはアメリカの視聴者数も超えていたらしく日本国内での関心の高さにあちらの関係者も驚いたそうだ。

明日はなんとかして診療の合間に見られないかなと今から策を練っている。私はNHKではなくSPOTVNOWにこの時期だけ加入しているのでそっちをチラチラと見よう。SPOTVNOWは録画視聴が出来るのがいい。若干遅れて録画で見ればきちんと仕事を済ませてのチラ見も可能だ。ま、それだけ今の大谷は見たい選手ってことだな。

2025年6月15日日曜日

それ、本当に27cmサイズ?

雨の日曜、夕方になって外に出かけた。夕食をどこかで食べるのと、靴屋でちょいとした調べ物があったからだ。

駐車場があって靴を売っているところといえば私にはABCマートしか思い浮かばず、与次郎ヶ浜のその店に行ってみた。単独の店ではなくショッピングモールの一角にあり、事前に調べていたニューバランスのCM996 GORE-TEX(ゴアテックス)防水用を探した。しかしCM966シリーズはあるが防水用のゴアテックスはなかった。まあそれでもよい。一番の目的はCM966が自分にはどのサイズかを知ることだった。私はニューバランスの27cmのスニーカーを持っているがどうも銘柄によってサイズがまちまちらしいのだ。カールに「実際に試し履きしないとネットで買ってはダメよ」と釘をさされていた。それもそうだと試し履きに出かけたのだった。

で、27cmのCM996を履いてみてびっくり。ぴったりどころじゃない。きつくて「これは絶対に27cmじゃ履けたもんじゃない」だったのだ。いや〜、やっぱり言うこと聞いてよかったよー。
後でネットでの評価に「このシリーズのニューバランスはプラス1cmくらいに割増しして選んだほうがいい」とあってなるほどと思った。28cmを履くとちょうどくらいだったのだ。防水用も売っていないし、店員も今一要求に応えてくれなくて出て、近くのフレスポジャングルパークの靴屋に行ってみた。そこのSHOE •PLAZAという店を以前利用したことがあり、そこでは最初から「防水用のスニーカーはないか?」と尋ねてみた。すると、スケッチャーズやセダークレストのスパットシューズなどを店員が紹介してくれた。どちらも手を使わず立ったまま履けるというのが売りだ。しかも1万円を切っていて値段も安い。履き心地はまあまあかな。ていうより、私の足にぴったりサイズが少なく即決する気になれなかった。

私が防水シューズを買おうという気になっているのは、GW時の岩手、小岩井農場で一件で、濡れた芝生を歩いていたらスニーカーがびしょびしょになったのが気持ち悪くてねぇ。それに昨年秋の空港での防災訓練でも皮靴だったけど濡れすぎてしばらくその靴を履けなくなったこともあり、多少の雨や濡れ場でも靴下が濡れないシューズが欲しくなったんだ。梅雨にも入ったことだしねー。

ただ、シューズって長さや幅、履き心地って実際に履いてみないと分からないことが多い。もうしばらくあちこち探すことになりそうだわ〜。

2025年6月14日土曜日

関東、北海道ではほとんど食べないもの

カールが沖縄に所用あり、朝一番の飛行機で送っていった。

帰宅後はゆっくりし、ドジャース対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦を見つつ、昼食をしデザートに枇杷の瓶詰めをヨーグルトでまぶして食べた。これ、今月始めに枇杷の実を一個一個皮を剥いて種を取りだし、種の回りの薄い皮も剥いて何百個も集めて、煮て作ったものだ。ほとんどカールが一人で作ったが私も少しだけ皮剥きを手伝った。えらい根気のいる作業だった。
カールは「とっても面倒だけど(枇杷の実を)捨てるのももったいないから」と、小さくて食べるのにはちょっと物足らなかった今年の枇杷を最大限利用したのだった。
瓶詰めと比較的実りのよかった枇杷はそれぞれ子どもたちに送っておいたが、先週セージとチッチのところに行ったカールから聞いて驚いたのが、「(セージの妻の)マーヤさん、枇杷を食べるのが生まれて初めてだった」ってこと。マーヤさんは茨城出身で、隣の千葉は枇杷の生産地でもあったはずだが・・。それとチッチからは「北海道出身の友人に上げたら彼も『枇杷は初めて食べた』と言っていた」そうだ。まあ北海道ではなかなか手に入らないだろうからねぇ。関東でも実際は枇杷ってそんなに生えていないんだろうな。鹿児島や長崎、九州では枇杷って庭先や路地にも生えていて時期になるといっぱい実を付けるから「食べたことがない」ってのは考えられない。ともかく「美味しかった」そうで、こりゃ来年はもっと大きくて立派な実がつくようちゃんと剪定、摘果をしないとな。
そんな事を思いつつ、ヨーグルトの酸味と枇杷の甘みが渾然となったこてる家特産「ビワグルト」を一人食べて悦に入っている私であった。