明日の告別式参列は、カールは明日朝沖縄に行くし私も用事があり無理だ。で、通夜も病院が終わってからとなると19時以降になりそう。カールにその旨伝えると、なんと夕方はキッチンの入れ替え工事のために業者が来るため通夜にも行けそうにないとのこと。それで私だけいったん帰宅後、喪服に着替えて一人で田舎に向かった。
葬儀場のみやび会館は一応場所は知っているが、近道があるはずとナビを設定し、知覧から加治佐、青戸を経由して石垣に向かう道を通った。頴娃町生まれの私でもこのコースはほとんど使ったことがなく何か新鮮だったな。加治佐地域は頴娃大川に流れ込む加治佐川や高校時代のクラスメートや外科の大先輩の出身地で名字もそのままなので地名としては知ってはいたが、実際に通ったのはおそらく初めてだった。夕方の黄昏(たそがれ)時だったせいか人っ子一人いず、「ここは限界集落か」といぶかるほど寂しい所だった。ただ開聞岳の眺めはよかったかな。
会館に着いたのは19時20分ごろ、ようやく周囲が暗くなり始めていた。会場にはヒラーキ始め、ほぼ全員が従兄弟姉妹だった。ネキバー叔母さん92歳は体調が今一つらしく夫の通夜には来られなかった。親世代で来ていたのがブンコ叔母さん89歳だけで、残るのがあこネーサで今年で96歳になる、無論通夜には来られなかった。施設入所で胃瘻造設後1年以上経過し比較的安定している。ふう、後2、30年で我々世代が同様の仲間入りやな。ノリヒック叔父さんには親戚のオジさん連中と比較してもお世話になった方だ。親戚の中で唯一囲碁の相手が出来る人で、私とはいい勝負だった。そうだ、2011年のトシバーの通夜でこのみやび会館に一晩泊まった時、磁石碁盤で一局打ったなあ。思えばそれが最後の対局になってしまった。中高生の頃は叔父さん宅でヒラーキとともに大晦日から正月にかけて年越しを過ごしたものだった。4才年下のシューイチ君ともその頃まではいっしょ遊んでいた。通夜にはシューイチの孫3人が県外から来ていた。シューイチが出張先のホテルで確か脳出血かなにかで急死してもう8年になるという。長男は41歳になったそうでそこでハタと思いだした。昭和59年のシューイチの結婚式に出席し、その時も私は当然写真を撮っていて、新妻のお腹がほんのり膨らんでいるシーンも写っていたね〜。あの時の子だったか。通夜は従兄弟会の様相を呈していたが20時半を過ぎたあたりでいったんお開きにしようとなった。明日の告別式もあるしで、私もそこから帰路に着いた。今度は通い慣れた海岸線を通ってから知覧へ向かい川辺鹿児島線から帰宅した。
若い頃や子育ての頃は冠婚葬祭は少々面倒に思っていた時もあったが、最近は冠婚葬祭に出るのは通夜、告別式ばっかしで、婚は年1回程度、ココちゃんが生まれたので冠と祭は1、2回はあるか。親戚との付き合いは減って来ているのでそうした冠婚葬祭での集まりは貴重だと思えるようになった。今回は従兄弟連中の健在ぶりと子世代の状況が分かって何よりだった。
0 件のコメント:
コメントを投稿