2018年11月18日日曜日

思い出の万博1970

大阪が2025年の万国博覧会に立候補し来週選挙で決まるらしい。万博と言えば1970年の日本万国博覧会が強烈に印象に残っている。今は「大阪万博」とよく言われるが正式には「日本万博」である。こてる家も初めての県外への家族旅行で春休みに関西に行き、万博にも行った。そう、飛行機にも初めて乗るということでわくわくしていたが、前日に「日本初のハイジャック『よど号』事件」が起き、そんなことも起きるのかと驚いたものだ。旅行中ニュースはずっとこればっかしだったな。

大阪の親戚筋の自宅に泊まり、奈良見物をした翌日、万博会場に行った。事前に小学館の学年雑誌などで知識を仕入れていた私はカナダ館やサンヨー館など見たかったが、何はともあれ「月の石」のアメリカ館だということで初めて長い行列というものを体験した。確かに遠くから月の石を眺めたはずだがほとんど記憶にない。会場の広さと建物(パビリオンって言う)の形の面白さはあったが、「動く歩道」が直前の転倒事故で使用されず、5台同時発着できるというジェットコースターも乗れず子供心にやや不満の残るものであった。それより神戸の小っちゃな動物園だか遊園地でのミニジェットコースターがすごく楽しかったこと、たまたま道路を歩いていたら救急車が止まっていて家の中から呼吸困難のおばさんが運ばれていったことを思い出す。前に日記にも書いたと思うが、その時私は「あのおばちゃん、きっと死ぬんだな」と思った。でも48年経って医師の私が診断するにあれは典型的な過換気症候群だった。救急車でよく運ばれるけれど死ぬどころかその日のうちに帰宅できる疾患だ。あの頃は無垢で無知だった。

帰りは4月5日でプロペラの飛行機で真下に甲子園球場が見えた。センバツ、箕島対北陽の決勝戦の日で、ハイジャックも一応の解決をみ、北朝鮮から羽田によど号が帰ってきたのもこの日だった。私はやさしいスチュワーデスさんに毛布を掛けられ甲子園を見た後はぐっすり寝込み気がついたら鹿児島は鴨池空港に降りる直前で外は真っ暗だった。

そして翌日から自宅兼旅館の新築工事のため、5ヶ月間上荒田での借家生活が始まるのだった。

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