2025年5月23日金曜日

「薩摩義士慰霊祭」よりも後ろの風景が気になった

MBC(南日本放送)の今日の「あの日のふるさと」コーナーは「薩摩義士慰霊祭」だった。

薩摩藩は江戸中期に幕府に命じられて濃尾平野の木曽三川の治水工事を請け負うことになり、家老の平田靱負(ひらたゆきえ)が総奉行として難事業の治水工事にあたった。1年3か月にわたり工事は完了し、地域住民が「薩摩様には足を向けて寝られない」と感謝するほどの実績を上げたが、完了までに約1000人を要し、そのうち病死や自害などで80人余死亡、工費40万両を要した責任を一身に負い平田は自刃したとされる(宝暦治水事件)。

工事にあたった藩士らは今では「薩摩義士」として慰霊祭が行われ、平田の屋敷のあったところは平田公園となり平田靱負の銅像が鎮座している。平田靱負の命日の5月25日に平田公園で例年慰霊祭があり、TVではまず1990年の慰霊祭の様子が出ていた。当時の赤崎市長が弔辞を読み、岐阜県側からも150人が参列するなどの様子が出ていたが、それはまあ私が知る城山の麓の平田公園の光景で特に違和感は感じなかった。
しかし次に白黒フィルムで流れた1960年の慰霊祭には驚いた。いや、慰霊祭そのものではない。平田靱負の銅像は全く変わらないけれど周囲の様子や風景がまるで違っていたからだ。1960年といえば昭和35年。私は生まれてまだ1歳にもなっていない。
平田公園は天文館のすぐ近くで鹿児島市内では中心地と言ってもいい場所なのに周囲の建物が平屋かせいぜい2階建てでしかも木造だ。現代の衛星写真を示そう↓。鉄筋のビルだらけじゃないか。ただ平田公園だけが昔と同じ場所で同じたたずまいを見せている。
より市内側の住居の様子が背景として写っている。
おいおい、言葉は悪いが、背後の家は掘っ立て小屋と間違うくらいじゃないか。わずか60数年前の鹿児島市内の家はだいたいこんなものだったのか。私が鹿児島市内は天文館周辺に引っ越したのが1966年で、確かに木造の家がまだ多かった。しかしそれから10年経った頃の天文館周辺は上の写真にあるような家はどんどんなくなって行き、平成に入った1990年ごろは今と変わらないような眺めになっていた。

慰霊祭では剣の演舞や相撲大会も開かれるなどの様子が出ていた。
後ろの「北海道木材」の会社もよく見れば店構えだけコンクリート風だが後ろは木造家屋ってすぐに分かる。昔はそんな構えの店が多かった。半世紀も立てば町並みはガラリと変わるってTV画面を見てしみじみ感じさせられた。変わらないのは桜島と平田公園だけ。町並みってそれを保存するのってすごく大変なことだ。だから江戸風が残る埼玉の川越や秋田の角館の武家屋敷通り、昭和の町並みが残っていることで大分県豊後高田市などは人気なのだ。

「あの日のふるさと」を見ていて、もしタイムマシンがあったなら、1960年の鹿児島市内の町を歩いてみたいと思ったわ〜。

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