2020年12月25日金曜日

なかにし礼を偲ぶ

 作詞家、小説家のなかにし礼が亡くなったという。私にとっては昭和歌謡の作詞家大御所のイメージが強く、子どもの頃自分が歌う歌謡曲が実はなかにし礼の作品だってことはしょっちゅうだった。特に昭和40年代前半はなかにし礼の時代といってもいいくらいの活躍ぶりだった。

子どもの頃の愛唱歌、森進一の「港町ブルース(昭和44年)」は素人の募集作品がそのままでは具合が悪く氏が補作したものだった。昭和45年のレコード大賞の放送ではにしきのあきら「もう恋なのか」対 野村真樹「一度だけなら」という最優秀新人賞争いに興味があった(にしきのあきらが受賞)が、大賞発表の時、え、「今日でお別れ」って何?菅原洋一って誰よ知らないぞと思った。今となっては実に味わい深い名曲だと思っているが、当時小学5年生の私にはよく分からない歌だった。ただなかにし礼にとっては二度目の受賞で実は黛ジュンの「天使の誘惑(昭和43年)」ですでにレコード大賞は獲っていた。

多くの人が氏の代表作、名作にあげる北原ミレイの「石狩挽歌(昭和50年)」はすごすぎて歌謡曲の範疇を超えている。日本作詩大賞受賞も当然という気がする。https://www.youtube.com/watch?v=9O1om6K9PM8北島三郎の「まつり(昭和59年)」は後年の作品だが紅白での定番曲となり都合7回も歌われている。

また、氏の作品は印象的なフレーズが多い。タイトルそのものが歌詞として印象に残るのが、先の「今日でお別れ(昭和45年)」、ピーター「夜と朝のあいだに(昭和44年)」、朝丘雪路「雨がやんだら(昭和45年)」いしだあゆみ「あなたならどうする(昭和45年)」で同時代を生きた人ならホラすぐに口ずさめるでしょ。あと作曲も手がけた黒沢年男「時には娼婦のように(昭和53年)」も強烈過ぎる。

出だしが有名なのが菅原洋一の「知りたくないの(昭和40年)」だ。♪あーなーたの過去など〜で始まるが、「過去」という言葉が歌になったのはおそらくこれが初めてだったのでは?と氏は言う。菅原洋一は「この『過去』の部分が歌いにくい」とクレームしたそうだが、氏は「そこがこの歌の命」と突っぱねた。この曲は元々アメリカのカントリーソングですでに「たそがれのワルツ」というタイトルと訳詞もあった。だが氏のひらめきで作られた「知りたくないの」が銀座のホステスの間で評判になっていて2年後に大ヒット曲になった。氏のみならず菅原洋一にとっても初のヒット作品になったのだ。https://www.youtube.com/watch?v=ej6UjNxCOo4

サビの歌詞が印象的なのが、奥村チヨ「恋の奴隷(昭和44年)」で♪悪い時はどうぞぶってね〜ってすごい。SM趣味なのに規制されない範囲で上手に歌詞にまとめている。あと弘田三枝子の「人形の家(昭和44年)」♪わたしは〜は(あ)なたにぃ〜命を〜あずけたぁ〜は弘田の劇的な歌唱もあいまって大ヒットした。https://www.youtube.com/watch?v=EmHY9ZP4Mboそう、弘田三枝子も今年73才で亡くなっていた。今年は筒美京平、数日前の中村泰士といい昭和歌謡の大家たちが多く亡くなった。まさに「昭和は遠くなりにけり」だ。

そのなかにし礼が歌謡曲の中で一番の曲と言ったのが、美輪明宏の「ヨイトマケの唄(昭和39年レコード化は40年)」だ。それを聞いた時は私はその歌をまだを聴いたことがなかった。そんなぁ買いかぶりすぎじゃないのと思ったが氏の言わんとするところは曲を聴いてみて分かった。余談だが私はコンサートなるものにはほとんど行ったことのない人間だけど2回だけ行ったことがある。1990年のポール・マッカートニーの日本初公演の初日と美輪明宏のコンサートだ。「ヨイトマケ」は聴けば今でもぐっと涙が出そうになる。https://www.youtube.com/watch?v=8NK9jtPyQdkその美輪明宏もすでに85才。大丈夫か?去年は脳梗塞になったとか聞いたが・・。ビートルズと昭和歌謡大好きな私には気がかりな時代になった。

私はなかにし礼氏を作詞家として多くを見ているが、カールは「兄弟」「長崎ぶらぶら節」「赤い月」など一連のベストセラーを読んでいて「すごく面白かった。私は小説家だと思っている」と言う。氏は一言で言えば言葉の才人だった。残された氏の作品を今後も味わうことで冥福を祈りたい。

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