2020年3月23日月曜日

樋之口(てのくち)町を眺める

5階病棟のヨシコNsと病棟患者の処置についた。一通りの処置が終わって私はヨシコNsに尋ねてみた。

「ヨシコさん、日頃みんなに『冗談はヨシコさん』って言われない?」
「言われます。しょっちゅうですよ」
「あは、やっぱり」
「5階にはもう一人ヨシコさんがいますよ」
「え、そうだった?」

看護師の氏名はおおかた把握しているがすぐにはもう一人の名前が出てこなかった。近くにいた中卓君が「ロックリジンNsもヨシコさんです」と教えてくれた。ああそうだった、漢字が違うが同じヨシコさんだ。

ヨシコさんといえば林家三平のギャグで有名で、他に数年前桑田佳祐がその名も「ヨシ子さん」というタイトルのCDを発売もしたくらいなぜか取り上げられることの多い女子名だ。それも「余裕のヨッちゃん」と同じく言葉遊び(地口)として。それで、「よくからかわれるわ」というにしては、にこやかなヨシコさんNsだった。

夜は天文館山之口町の日本料理店「世楽」で食事だった。私は病院から直接向かってカールとチッチが来るのを店の前で待っていた。10分以上待っている間に、通りががりの若い男性から「すみません、この近くに焼き鳥の『せんみょう』って店はないですか」と尋ねられた。うわ、聞いたことないよ。昔だったらこの近くに住んでいたので即答できただろうが、「この通りは見てのとおり多分ないと思いますよ。あるとしたら隣の樋之口(てのくち)本通りじゃないかな」と教えると、スマホを確認した彼は「あ、そのとおりだ、あっちだった」と礼を言いながら去って行った。

樋之口町か・・ここに23年間住んでいた頃は居酒屋や焼き鳥屋などほとんどなく、繁華街には近いが普通の下町だった。飲食店で言えば鳥料理の「一保」がいまだに続いているのは偉いわ。焼き鳥の「謙信」が出来たのは平成に入ってからじゃないかな。あと居酒屋&会食料理の「さかなちゃん」は昭和50年代に最初8番地に出来たがすぐに今の9番地に引っ越し新築し今に至っている。オーナー店長が私の出身と同じ頴娃町で同じ番地だったからしょっちゅう利用させてもらっていた。待っている間、目の前にはちゃんこ料理の「朝の海」があってこの店も平成の初めくらいから長く続いている。50年くらい前のこの辺りは友人のいっと見れ君の家があって遊んだ記憶がある。人生ゲームとやらを初めてやってすっごい面白かった。

もっとも友人宅で遊ぶことはあまりなく、すぐ近くの天文館公園でゴムボールでの野球やドッジボール、サッカーなどで毎日遊んでいた。公園に行けば誰かしらいて遊び相手には困らなかった。私が今立っているのは清滝川の上にコンクリートを被せて芝生とタイルが敷かれている所だが、ちょっと以前は川を暗渠(あんきょ)にした市営駐車場だった。さらに50年前は小さなドブ川そのもので川は天文館公園を突っ切っていて、ドッジボールやゴムボールが落ちるといやいやながら下に降りて取り戻しに行かねばならなかった。昭和45年ころくらいに暗渠になってからは子どもらの遊び場所に変わった。「世楽」と「朝の海」の間にかつては川だったと分かる所がある。ドブ川もこうするとおしゃれに見えるから不思議やね。

「世楽」で食事するのは私とチッチは5年ぶりくらいだった。食事も終わるころ、隣の部屋で定年のお祝いをしている客の一人が私たちの部屋に顔を出した。何事?と思ったら、何とセントラル高同級生の槓凹君だった。
(↓その瞬間を写真に撮った。チッチの表情、オヤ?が可笑しい)
彼は後からやって来た私たちに気付いていたらしい。後輩職員にプレゼントをもらったりお返ししたりやっていたようだ。4月に入ったら彼も含めて同窓生でまた飲み会をする約束もあった。今日のこともまた話題になりいいネタになるだろう。少しずつ暖かくなり、コロナ騒ぎで気を揉む以外はいい夜だった。

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