2016年12月15日木曜日

小里貞利氏、死去

小里貞利、元衆議院議員が亡くなったという。86才、肝不全だったという。TV、新聞、ネットでそれぞれトップニュースになるくらいだから鹿児島県出身の政治家としてはなかなかのものだ。小里さんといえば九州新幹線建設の功労者として「ミスター新幹線」ともいわれ鹿児島中央駅の西口には胸像もある。
新幹線ばかりでなく阪神大震災時は当時の村山首相から地震対策担当相に任命差され復興支援にあたりその功績は高く評価されている。

産経新聞によると、
「震災発生から3日後だった。すぐに現地へ飛んだ。未曽有の災害を目の当たりにして、「これは命がけでやらないといかん」と身震いしたという。村山富市首相に「超法規でもやりますよ」と言うと、「人事も予算も任せる」と全権を委任された。▼まず手を付けなければならないのは、がれきの処理だった。公費負担を即決し、森林法などの手続き、許可を経ずに、六甲山裏や神戸港を集積場に決めた。兵庫県から要望があった3万戸の仮設住宅を4万戸に増やした。建設会社の社長を集めて「土日返上でやってくれ」と頭を下げた。▼東日本大震災直後に本紙のインタビューに答えている。阪神大震災では自衛隊の出動要請の遅れなどに批判もあったが、復旧・復興への動きは速かった。国難に立ち向かうには、政・官、そして民が力を合わせなければならない。その先頭に立つのは-。遺した教訓を忘れてはいけない。」

小里さんが公家集団とも揶揄される派閥自民党宏池会に所属したのかはよく知らないが、県議上がりの実戦派だったからこそ実績を残せたのか。東大、大蔵省上がりの宏池会国会議員には出来なかったに違いない。新幹線導入に際しても大蔵省幹部の昭和の三大馬鹿査定などとけなされても信念と粘りと決断で鹿児島ー八代間を先行着工するという多くの人が想像もしていなかった方式で実現させた。ところで小里さんは馬鹿査定発言の大蔵省主計官(大蔵役人のトップ)とは何度も顔を合わせてはいたが、自著のなかで「問題発言に関しては、ただの一度も抗議はしなかったし、話題にもしなかった」という。さすがやねえ。

その後の九州新幹線の効果、発展ぶりをみれば馬鹿査定と言った方が間違いだったことが分かる。鹿児島から川内、出水はあっという間で熊本間ですら通勤通学圏内、福岡へは気軽に仕事、旅行、買い物に行ける、神戸、大阪までは飛行機を利用しなくなったし、生活が大きく変わった。地方を活性化し国土の均衡ある発展を目指した小里さんの信念は新幹線と胸像という形になって今後も刻まれるってことだ。

ちなみに、私は1回だけ小里さんと会ったことがある。というより診療でのことだ。20年ほど前、氏は鹿大の第二内科で定期的に診療を受けていた。一般の人に交じっては何かと差し障りがあるので診察日には朝早く各グループからスタッフが集められ諸検査を行っていた。私は内視鏡ではなく腹部エコーを担当した。付き添いの秘書らしき若者を名前で呼んでいて確か息子さんで現国会議員の小里泰弘氏だったと思う。検査を終え所見を書いてそれで私の役目は終わり。今回入院していた病院は全国紙には出ていないが南日本新聞によると鹿児島市立病院とのことだ。ふーん、現院長は前第二内科教授の坪内先生(専門は肝臓)で、私が在局中は同じ肝臓が専門の有馬教授だった。やはり鹿大二内科とはつながりがあったんだな。

今回、小里さんの業績などネットで調べるにつれ、改めて偉い政治家だったと思った次第だ。

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