2020年5月2日土曜日

あの女の子が今はTV局プロデューサー

3月は小学校講演(現在延期中)がらみでかつての同窓生に思いをはせることが多かった。その中では吉俣良君が一番有名かもしれず何度か話題にしてきた。そんな中、卒業写真を見ていて、ふと「櫨山裕子(はぜやまひろこ)」さんはどうしているだろうかとネットで調べてみた。

彼女とは小中学校が同級で確か今は東京のTV局でプロデューサーをやっていると聞いたことがあった。ダメ元で名前をググってみた。すると日本テレビのプロデューサーとしてなんとWikipediaにも出てきたではないか。となれば立派な公人扱いだ。日テレの情報・制作局・局長待遇ゼネラルプロデューサーという結構な役職である。1983年に日テレに入社し、1994年からドラマ制作部に異動し『金田一少年の事件簿』のプロデュースを皮切りに、堤幸彦とのタッグで「土9」ドラマを日テレの看板枠に押し上げた。代表作に、『銀狼怪奇ファイル』『サイコメトラーEIJI』『ハケンの品格』などがあるそうだ。へー、私も知っているドラマも結構ある。ただどれも見たことがないのは残念だ。

Googleでは「日本テレビのディレクター・プロデューサーによるスペシャル座談会」というサイトが検索され読んでみると、
https://www.yomiuririkou.ac.jp/topic/interview2015.html
櫨山さんは「私は高校生の頃(彼女は鶴丸高校出身)は何をしていいかわからなかった。実家は鹿児島で市役所か自衛隊にでも行こうかと漠然と思ってましたけど、親に『大学には行って』と言われて、『東京に行ける』と思って大学に入った」とあり、これなんか吉俣とも似ている。彼も将来は「公務員かなにかになるのかな」と思って横浜市立大商学部に進んでいた。どちらも最初から劇や音楽を職業にしようとは思っていなかったのだ。彼女は「大学では、たまたま舞台を見てハマった。4年間演劇のスタッフをやってきて、さて就職をどうしようと思った時に、自分が打ち込んできた延長線上にテレビがあったという感じですかね」といずれも大学時代に舞台、音楽と将来の自分の進むべき道につながる出会いがあった。だから「小学生で将来何になりたいか」を決める必要がないのは当たり前で、多くの人は高校大学で決めていいのだ。それよりいろんなことを学び、遊んでおくことが大事だろう。

座談会に出た水田プロデューサーは高校3年生に対し「あまり仕事のために勉強しようと思わなくても、せっかくの青春真っ最中の高校3年生なんだから、恋もいいし友達とつるむのもいい。その時楽しいと思えることが必ず仕事に向かった時に引き出しというか、材料になる。大事なのは、記憶に残る1年を過ごすことだね」と語り、櫨山さんは「そうですよね。仕事になる前に見たものはいつまでも覚えているしね。好きなことを楽しむことかな。私は何かに打ち込める人に来てもらいたい。不器用でもいいから何かに打ち込むのが得意な人がいい」と特にドラマ制作ではまじめに勉強して作れるものではなく、その人の経験とのめり込み具合が大事だと言っている。大いに肯ける話だ。もし小学校講演の依頼がまたあればこの二人は好例として生徒らに提供したいと思った。

櫨山さんの写真を見ると確かに昔の面影がある。仕事柄、独身なのかな?小学校の1年2年が同じクラスで中学の時は生徒会の役員でいっしょだった。いい感じの女の子だったね。生徒会では鹿児島のMBCアナウンサーの上野知子さんともいっしょで経歴を見るとどちらも東京女子大卒だ。TV局に強くないか東女は。櫨山さんでいうと、私は彼女のお母さんを小学1年の時にPTAで見た時にとってもきれいで品があって子供心に「うわ、あんなお母さんだったら素敵だ」と思ったものだ。同じく今は京都の高僧になっている矢野謙堂和尚のお母さんも優しくて好きだったな。どちらも生きていれば90才近いお年のはずだ。

そうだ、また思い出した。中学3年の時に、櫨山さんから「小学高学年になったときに勉強の出来る男の子がいると聞いて誰かと思ったらこてる君だというのでびっくりした(私は小学低学年時は問題を起こすことが多く成績もごく普通だった)。矢野君なんかといっしょだと思っていた」と言われた(厳密には文章にそう書かれた)ことがある。おいおい、今はそれなりの医者と僧侶だぞ。子どものころ特に小学低学年では将来どうなるかって分かったもんじゃないよな!

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