2017年3月7日火曜日

海難事故

夜は当直だった。夕方、タナカッツMRが来てスマホの画面を見せた。「何?」「先週土曜に朝なんですが、うちの会社のメンバー9人で朝6時からの魚釣りでチャーター船に乗ったんですね。でも出港してから10分くらいで燃料給油船と接触事故を起こしまして・・」「え!」「私やタシケントMRも救急車でおもねり病院に運ばれたんです。私はたいしたことはなかったんですがタシケントが鎖骨を骨折してしまって」だと。うわわ。「で、タシケント君、入院したの?」「いや安静指示で帰宅しまして、骨もずれていないから今日は出勤してました」「へー、大丈夫なのかい」「病院回りは少し制限があるとは思いますがどうにか」

いやー、まさかそんな事故に遭っていたとは。早速、朝のニュースにも海難事故として報道されていた。

ちょうどスリウェルMRも来て「え、どうしたの」と事情を聞き驚いていた。

5人が運ばれタナカッツMRが一番軽症でタシケントMRが一番重傷だったライフジャケットはまだ付けていなかったそうだから海に落ちてしまえば危なかった。。不幸中の幸いだったのだ。

海難事故といえば、私が6才になったばかりのころ、父デンコーが沈没事故に遭った。親戚のおばさんが外で土遊びしていた私と弟を大声で呼び戻し、船が沈没して全員海に投げ出されたんだぁとわめいていた。夕方のローカルニュースではまだ生死不明でアナウンサーも父の名を正しく読めていなかったのを覚えている。その後通りかかりの船に拾われ九死に一生を得た。でも乗組員の中で唯一デンコーだけが脚の骨を骨折し入院したのだった。

この出来事が私の人生に大いに影響している。貨物船を所有し沈没してもまだ船を続ける気でいたデンコーだったが、祖父デンシローが「もう船は止めて陸の仕事をしろ」と保険金で鹿児島の旅館を買うよう勧め、一家で鹿児島市内に引っ越すことになったのである。デンコーは父デンシローには絶対服従だったからやったこともない旅館業もやらざるを得なかった。しかし田舎ののんびりした環境でなく市内に出てきたことで私も勉強をきちんとする子になった。子どもを医者と歯医者にするとデンコーは野望を抱き(小学4年のころ私はそれを聴いたが実際に医学部を目指そうと思ったのは高2になったころ)、結局それは現実になったのである。あの事故がなければ私の人生も別のものになっていたかもしれない。

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