2014年2月2日日曜日

三菱鉛筆は三菱ではない!

九州新幹線に「Please」という車内誌がある。その2月号には佐賀県出身で三菱鉛筆の創始者である眞崎二六(まさきにろく)が紹介されていた。このPleaseには毎号、一般には知られているとは言いがたい九州出身のひとかどの人物を数ページに渡って紹介している。これがなかなかの好記事が多い。

江戸末期に生まれた眞崎二六は明治初期パリ万博で鉛筆を見てこれを日本でも作ってみたいと思った。紆余曲折あっても死ぬまで鉛筆作りに心血を注ぎ、亡くなった後も子孫や従業員が引き継ぎ今でも鉛筆、ボールペンなど日本を代表するメーカーとして続いている。私の愛用のボールペンも三菱のジェットストリームだ。元は薬品会社の販促品でもらったもので、医者というものボールペンに困ることはまずなく自分がミニ販売できるくらいMRからもらうことの多い品なのだが、医師になって初めてボールペンの芯を購入したくらいお気に入りになった。

初期の頃、芯作りに最適な材料が鹿児島は加世田の黒鉛と栃木の烏山の粘土だったというのも私の地元近くだったということで面白かったが、何といっても今回の最大の驚きは「三菱鉛筆」が「三菱財閥や三菱グループ」と何の関係もないという事実だった。三菱鉛筆のロゴには「uni」の他にあのスリーダイアモンドのマークがちゃんとあり三菱グループの会社だと疑うほうがおかしいくらい系列の一つと思っていた。「眞崎鉛筆」が眞崎家の三つ鱗の商標をもとに三菱のマークを考案し明治36年に商標登録申請し認められた。三菱財閥が申請する10年も前のことだった。全く同じものゆえその後どうするかとなったようだが、商品が競合しないことなどから並立が認められたようだ。同じようなケースは熊本県の弘乳舎が販売する三菱サイダーがあり三菱財閥が登録する以前から使われていたためで、マークの無断使用には厳しい三菱もこれは認めざるを得ないということだ。「眞崎鉛筆」は戦後はGHQに財閥と間違われ解体されかかったこともあったが、誤解であるとして免れ、一般には三菱の鉛筆と言われていたため昭和27年に「三菱鉛筆」と社名を変更しそのためますまず系列と紛らわしくなった。でも三菱グループ入りを勧められたことがあるもそれは断り、今に至るまで距離を置こうという気概さえ感じられるのも面白い。頑固で職人気質であった眞崎二六の気質が今につながっているからかもしれない。いやー、読んでいてなんだかすごくためになった気がした。

たかが車内誌、しかし含蓄があり一般誌に優るとも劣らずこのまま継続して欲しいものだ。

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