2014年6月20日金曜日

鎮魂対馬丸

朝は見ていましたよ、W杯日本対ギリシャ戦。でも通勤時間帯にかかって車の見えない画面からの音声でのみハラハラ、イライラしつつ聞いていた。相手は10人だというのに点を決められない。結局、0-0のドローかよ。がっくり。これで残るコロンビアには勝つのが難しい故決勝トーナメント進出は困難になった。大迫も前半頑張っていたようだが残念だ。

報道番組で沖縄の戦時中の学童疎開船「対馬丸」の悲劇のことが出ていた。魚雷撃沈され学童約780名を含む1400名以上が犠牲になった事件から今年で70年経ったという。私がこの事件を知ったのは初めて沖縄に行った昭和63年のことだ。このほかにも悲惨な沖縄戦のことを本やMOOKなどで知り衝撃を受けた。沖縄の本屋には地元出版のこの手の本がいっぱいあった。有名なひめゆり学徒隊のエピソードも沖縄戦の中ではさほど目立つものではなくヤマトンチュは沖縄の悲劇をもっと知るべきだと思ったものだ。天皇陛下もことのほか沖縄には思い入れがあるようで自分と同世代の学童等が犠牲になったこの事件に以前から追悼の意を示され近々慰問されるそうだ。これは沖縄の文化研究の著名学者外間守善(ほかましゅぜん)の影響もあると聞く。ご進講の際、陛下の質問に外間の身内がそれで亡くなったことを答えたとか。

この対馬丸、うちとは関係なさそうだったがそうではなかった。「もし」があればだがカールは生まれていなかった可能性がある。というのも、カールの父(故人)は当時10才で親のショークンは家族のうち一人でも疎開させようとし那覇港の対馬丸に一旦は乗せたのだが、見送り付き添いの祖母がぐずる孫を降ろさせ(お腹をこわしていたとの説もある)たのだった。祖母が離ればなれになるのを嫌がっただけかもしれない。しかし結果的には正しい判断だった。撃沈され助かった学童は59名2割にも満たなかったのだから。

そのころギボヒサコ一家はキンキサ父だけ沖縄に残りミネキヨ母以下弟妹らと鹿児島の大口に疎開していた。幸い両家とも誰も犠牲にならず沖縄戦を生き延びた。幸運だったと言えるだろう。6月は沖縄戦が終わった月だ。犠牲の上に今の沖縄がある。鎮魂。

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