2023年2月16日木曜日

理事長「国防について」語る

うちの可愛いんだ理事長が今月の鹿児島県医師会報に珍しく寄稿をしていた。タイトルは「国防について」だ。当然一読し、こてる日記ネタにしようかと思っていたが、はたしてそれを取り上げていいものか躊躇していた。いや、その内容についてではない。医師会報が医療関係者向けの雑誌であり、このブログに取り上げるのはもしかすると著者である理事長が嫌がるかもと慮(おもんぱか)ってのことだった。しかし今日の院内電子メールで「青雲会病院のホームページに理事長の寄稿した文章が掲載されました」とあり、ぜひ皆さんも読んでとのことだ、世間に向けて公表しているわけだから、私が取り上げても何ら問題ないわ。(これまでずっと「こてる日記」では「可愛いんだ理事長」と記してきたが本名は↓のとおりである)

国防について

社会医療法人青雲会
理事長 川井田浩

 2022年2月のロシアのウクライナ侵略や、中国の台湾への威嚇、東シナ海における過激な行動、南シナ海でのベトナム、フィリピンとの紛争など、ロシアの侵略や中国による周辺国への衝突事案が頻発している。国会では自衛権の行使や集団的自衛権について戦争に子や孫を狩り出すのかとか、自分の国を自分で守らないで誰が守るのかといった国防の議論が国論を二分してかまびすしい。北朝鮮は弾道ミサイルを連続して打ち上げ、韓国も歴史認識で日本を攻撃しているが、過去の世界の歴史を紐解いて、我が国の在り方を考察してみたいと思う。

 加来彰俊著「プラトンの弁明」によれば、古代ギリシャでは戦争に負ければ成年男子は皆殺しにされ、女、子供は奴隷にされ他国に連れて行かれるのがきびしい現実であったという。それゆえ、自由とはまずなによりも祖国の独立、自分の住んでいる国の存立なくしては考えられないわけである。

 ソクラテスは人生とはただ生きるだけではなく、いかによく生きるかであると述べているが、ただ生きるだけが問題になる状況(戦争、隷属、飢餓)では人生そのものがふっとんでしまう事になる。

第三次ポエニ(フェニキア)戦争でカルタゴは古代ローマ帝国に滅ぼされ、その民族は消滅し、その地は草木一本生えない様に塩をまかれたという。カルタゴは当時貿易で栄えていたが、自分の国を自分で守るという概念が薄く、金で雇った傭兵に国防を頼っていた。(極端な言い方をすれば日米安保条約下の日本が該当しなくもない)

 貿易紛争が起因となり、三度のポエニ戦争のあげく、ハンニバルの敗戦により第三次ポエニ戦争で国家が消滅した。現代において中国共産党によるチベットやウイグルにおける民族浄化策等は国防の必要性をいやと言う程痛感させる事例ではなかろうか。反日教育による中国国民の我が国に対する嫌悪感は、太平洋戦争と無関係な我々の世代に対しても異常なまでにかきたてられている様だが、一朝事あらば貿易立国日本が、中国が民主化されないかぎり、カルタゴの道をたどらないとは言いきれない。

 プラトンは民主制が善と定めているものは自由であり、言論の自由を含めて誰でもしたいと思う事をする事が出来るし、自由に好きな様に暮らしをたてて良いとし、アリストテレスも人が自分の好きな様に生きることが自由であると規定している。しかし、田中美知太郎は「自由の自己矛盾」として、自由の無制限な追及は、自由そのものの否定になる事を明らかにしている。

 その要諦は、仮に一つの自由な社会があるとし、その社会ではあらゆる自由が許されるとすると、自由な社会そのものを否定する自由も含まれていることになる。

 その結果、自由そのものを否定する言論、思想、行動の一切が許される事になり、自由な社会が否定され、自由はなくなるというわけである。プラトンは過度な自由は過度な専制を生むという。従って真の自由とは法治ないしは遵法のことであると加来彰俊は述べているが、理解出来る考え方である。従って、この自由な民主主義の日本においてこの国を維持する事が経済優先だけで良いのだろうか。日本をとりまく周辺国の状況を考えるならば、憲法9条が定めている国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。という事は無防備でしかも相手の攻撃に対しても戦わないという事であれば、容易に日本国は占領され、殺戮され、残された国民も収容所送りとなり、洗脳教育を受けるはめにならないのだろうか。これからは法の解釈を都合よく捻じ曲げるのではなく、法治国家として、堂々と憲法を改正して、国防をタブーとせず国是とすべきではなかろうか。

 国防にあたる人々をおとしめる事なく、処遇を含めて感謝の念を表すべき時が来ていると考えるが、いかがであろうか。

内容は、国防のみにあらず「自由」の真の意味に言及するなどなるほどと思わせる。理事長は古代ローマの話や哲学の本をよく読まれているのはこれまでの朝礼訓話などで察しはついていた。私は世界史を習っておらずカルタゴのハンニバルと古代ローマ帝国との戦争の話題も最近NHKのBS番組で知ったくらいだ。しかし世界の歴史を所々かいつまんで学べば、自衛力を持たない国は滅ぶか滅ばなくても支配国の中で奴隷のような扱いを受ける、そういったケースは枚挙にいとまがない。

一昨年見た中国ドラマ「射鵰(しゃちょう)英雄伝」の物語の発端も北宋の防衛力が弱く金に侵略された靖康の変(せいこうのへん1126年)で、主人公二人の名前もこれにちなんでいる。この戦争の後、宋室の皇女たち全員が連行され、金の皇帝・皇族・将兵らの妻妾にされるか、官設妓楼「洗衣院」に入れられて娼婦にさせられたという。あまりにも恥なことであるとして中国人はこのことには触れたがらないらしい。

私は小学生の頃、戦後日本の平和憲法の教科書の記述で「兵力を持たずにあくまで平和外交をするのです」といった内容にふーんと思いつつも本当でそれでやっていけるのか自問自答してみたことがある。しかしどう考えても武力で問答無用に侵略されたらどう対処するのか答えが見つからなかった。当時の担任の先生は、教科書の内容を支持しつつも「兵隊に行った人が『敵国人が自分らの住み家を襲ってきた時、武器がないとどうにもならない』と言っていたのが印象に残る」という逸話も話してくれた。まあバランスが取れた教育だったと思い出す。

20年近く前の青雲会病院は朝日新聞を取っていた。ある時理事長がどうもその記事内容に激怒したらしく「明日から朝日は取らん!」と読売新聞に変更になった。今では南日本新聞、読売新聞、産経新聞の3つを購読している(理事長の寄稿を読めば当然の帰結だろう)。

平和憲法があったから日本は前後ずっと戦争なしで平和にいられたという意見は一聴するとして、自衛力(武力)を持たないというのはあまりにも現実離れして実情にも合わない。北朝鮮のミサイルが日本国土に落ちても何も反発せず、「話し合いで解決ましょう」って言うのかい?だから、憲法を堂々と改正すべきという意見はあまりにもまとも過ぎると思うがな。前にも書いた気がするが、日本と日本人は憲法を変えるのを嫌がりすぎる。少なくとも10年1回は必ず憲法のどこかを改正するという決まりを作っておけば良かった。そうでも決めておかないと日本人は法の解釈だけで済まそうとする癖がある。自衛隊は軍隊そのものなんだから国防のために存在するということをちゃんと憲法に記すべきという理事長の意見には賛成である。

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