2023年2月5日日曜日

第六垂水丸事件を知っていたか

昨日が夕方まで日直だったのに、今日の日曜は何の予定もない自由日だ。で、結局、ずっと家に引きこもってだらだらと過ごした。ネット麻雀したりYouTube見たりのヒマ老人の過ごし方や。

今日の南日本新聞「南風録」は↓のような記事だった。

その日は快晴で鹿児島湾は穏やかな表情を見せていたという。1944年2月6日。第六垂水丸は定刻より少し遅れて垂水市の桟橋を鹿児島市に向けて出発した。

 ところが、200メートルほど沖合で傾き、間もなく転覆してしまう。本来の定員340人を大きく上回る700人余りが乗船しており、バランスを崩したのは必定に思える。540人以上が冷たい海で命を落とす大惨事になった。

 戦時中の情報統制で事故報道は控えめだった。今はかなり明瞭に全体像を知ることができる。15年ほど前から研究者や市民らが当時を知る人の証言を熱心に集め、記録に残したからだ。

 当時の運航会社は持ち船の一部を佐世保方面の軍人軍属の輸送に徴用されていた。燃料不足もあり、1日12往復を4往復に減らさざるを得なかった。生活航路が減便になれば、残りの便に客が集中するのは当然だろう。

 しかも、当日は鹿児島市の陸軍西部第18部隊の面会日だった。戦地への出立が迫った息子や夫らに一目会おうと、大隅半島各地から家族が乗り場に詰めかけた。危険を察知した船長は出港を拒んだが、居合わせた軍将校に命令口調で強く促され、ともづなを解いたと伝わる。

 無理が通れば道理が引っ込む。ことわざを地で行く戦時体制下の不条理に泣かされるのは、いつも一般市民である。痛ましい事故の記録が語る歴史の教訓を忘れてはなるまい。

いやー、そんな事故があったとは知らなかった。戦時中の民間の船の転覆事故といえばいくつもあって、中でも沖縄からの疎開船「対馬丸」は米潜水艦からの魚雷攻撃で転覆し多くの学童が犠牲になったことで知られている(1944年)。後にカールの父親になる小学生も直前まで乗るはずが、お腹を下していたこととぐずったために、祖母が「こんなんでは行かせられない」と言い、結局乗らずに難を免れた。もし乗っていたらかなりの確率で亡くなっていたはず(1484名が亡くなり助かった児童は59名のみ)でそうしたらカールは生まれて来なかった。この時の疎開船は対馬丸の他、暁空丸に一般疎開者役1400名、和浦丸には学童だけで1514名も乗船していた。和浦丸にはカールの同級生の後にお母さんなる女子学童も乗っていたという。カールの親世代には身近な事件だったのだ。1944年から沖縄戦(1945年4月〜)直前の1945年3月まで合計187隻の疎開船が出たが犠牲者を出したのは対馬丸一隻のみだったというから遺族にとっては悔やみきれないことだった。

いずれにせよ、昭和19年(1944年)という年のこれら沈没事故は戦争がからんでいる。第六垂水丸は軍人の横暴さもあっての人災の側面が強い。これらの記録を残し、遺訓として後世に伝えることはとても大事なことだ。そして現代の人にも広く知らせることは新聞の役目でもあろう。南風録もこれで今年の日記ネタ2回目だ。こてる日記ネタがない時には助かる。今後も良い記事を載せて欲しいネ。

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