2018年8月8日水曜日

天寿

当直明けで早帰りで帰宅すると、シェーバーES-LV7Cが届いていた。デザインは4、5年前のものとわずかに変わり洗浄機は旧型は使えなくなっていた。充電後さっそく剃ってみるとヘッドが柔軟に動き滑らかだ。剃った後もヒリヒリ感は全くなくここ数日の不安感から解放された。

夕方は内公Drの通夜に出席した。今日はそれもあって早帰りをしたのだ。一昨日の月曜に中学同窓生のシンタカさんからメールが届き彼が亡くなったのを知った。もっとも2ヶ月ほど前から寝たきりの状態になっていると知っておりとうとう来たかと思った。20分ほど前に吉田葬祭に着き会場前の廊下に入ると、医学部時代のアルバムや遺品などが並べられていた。周りにはずらりと医療関係者の供花が並ぶ中に山形屋関係のものもあった。彼の実家はあの有名な饅頭を作っている商店でもあり、饅頭パックも置かれていた。

会場に入り真ん中ほどに座っていると目の前に私のバスケ部後輩のカメバスDrが先輩Drと座ってきた。内公Drは脳外科医で13年前に3号線沿いにクリニックを開業していた。カメバスDrは脳外科で内公Drの後輩に当たる。そういえば青雲会病院のポンシンDrも脳外科後輩でいっしょの病院で働いたこともあると言っていた。また医学部同期で内公Drの親友のカピバラDrも早めに来ていた。表情を見れば急な別れではなかったことが知れる。癌で亡くなるということは悲しいことだけれど残された人たちにとって死を受け入れ別れを惜しむに十分な時間がある。元気な人が突然死するよりはいいのかなと思う。

18時からの読経、焼香が終わって喪主である奥さんが挨拶をした。「少し長くなりますが」と前置きしてから話し始め、最初に「天寿を全うしたという言葉があるが内公さんは天寿を全うしたと思う」と述べた。ほう・・。そして淡々と語っていく内公君の人生を聞けば、一般には人生半ばにして無念の死ではと思われがちも、確かに天寿を全うしたと言ってもいいかもしれない。子ども二人も無事に成長し一人は医師に一人はすでに結婚し子どももいる、自身は脳外科勤務を経てクリニック開業も順調で、自分と妻の家族一同でハワイ旅行もかなえることが出来た。ただ5年前に検診のつもりで受けたPET検査で小さな肺癌が見つかり・・手術で無事取り切れたに思えたが4年後に脳に転移箇所があって・・さすがにこの後は声を詰まらせた。そこは私も分かる。デンコーの弔辞を述べる際、亡くなる時の場面になったら思わず涙が出てきて声を詰まらせたものだ。この後も最後まで気丈に話しきり立派な挨拶だと思った。この日を覚悟しこの場面でこう語ろうと思っていたからではないか。再発が分かって1年あまり、別れを迎えるまで結婚30年、開業13年の記念も過ぎ、長女が見舞ってまさに勤務先の大分に帰ろうとする直前に血圧が下がりみんなで最期を看取ることが出来た。生きた年月は60年足らずであっても充実したいい人生だったのではと私も思えた。

気がつけば背後には大勢の参加者がいて遺族への挨拶に並んでいた。その間、私も多くの知り合いに会った。ちょうど、歯科医のタニグー君と会って彼が並んでいたのでそこへいっしょに奥さんに挨拶しようと割り込んだ。実は内公君とは長いつきあいだが意外につるむことはなく二人でいっしょに何かをしたという記憶がない。2年近く前、城山の講演会が終わった後、カピバラDrやお通じDrとバーで1時間ほど飲んだことがあったくらいで、その時にいっしょに撮った写真がありそれをプリントして奥さんに渡そうと準備していた。全くの初対面なので顔見知りのタニグー君といっしょなのは渡りに舟だった。写真を渡すと長女ともども喜んでもらえ、飾って置きたいと言ってくれた。

この後は帰る参加者も多かったが、医学部同級生が座るブースに残りお互いの近況を語り合った。斜め隣には中学時代の同窓生が集まる席もあり私はそちらにも行った。最初は何も食べず帰宅して夕食を摂る予定だったが、中1の時からのオトコミセ、水床両君が遅れてやって来て、語り合ううちに時間も過ぎ出されていた食事で済ますことにした。ただ、まさか最初から最後までいるとは。帰り際に思い出の品を3人で見ながら斎場を後にした。その際に「これを着けると暑いんだよなー」と髪を触って頭部の一部を取り外したのがオトコミセ君でなんと何十万かするアートネーチャーを着けていたのだった。いや、白髪の分配も自然で分からんかったぜー。

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