2017年7月26日水曜日

その3つのレジャーは高度成長期の名残か

当直だった。それほど忙しくはなく夜はオマル爺さんのところへ出向き、4子局の対戦。また勝ってしまったぜ。「強くなった」とお褒めの言葉を頂いたがこの1ヶ月それほど囲碁の勉強をしていたわけではない。元々この程度はあったのさ。

私が囲碁を始めたのが中学2年のころでそこから高校くらいまでが最初のハマリ時期。大学に入ると周りに打つ人がいなくて麻雀に流れた。医者になって3年目のC出張時代(キリビョー、リューセイ)が第2のハマリ時期でどちらも医局に碁盤があって先輩Drと対戦することで囲碁熱が再燃した。当時自分の棋力がどのくらいか分からなくて初めて西田橋の碁会所(日本棋院鹿児島市支部西田橋囲碁道場 :当時から古くさい建物だと思っていたが未だにあの建物のままらしい。崩れないか心配だ)に行き、「どのくらいあるのか教えて欲しい」と頼み、常連さんと4子局を打ったら勝ってしまった。すると「うん、3級はある」と言われた。今思えば、その常連さん、初段か二段くらいであんまし強くはなかったんだな。この時期が一番ハマっていたように思う。囲碁雑誌はほとんど毎号買っていたしNHKの囲碁番組も欠かさず見ていた。

第3の再燃時期は沖縄に2度目の出張の時だ。大学の後輩サナダムシDrらとパソコン通信でネット碁をするようになった頃だ。遠隔で対戦ができるという当時としては夢のような方法で機器購入(10万円をこえた)や通信費が高かった(対戦数で変わり1万円以下)けれど3年間で何百局も打って人生の中で一番実戦をこなしたころだった。ちょうど鹿児島に帰るころインターネットが世間で始まろうとしていてパソコン通信の時代はすぐに消えたが、私も囲碁熱が少し冷めてきていてネット碁でやり放題できるのにほとんどしていない。

それから約20年、その間漫画「ヒカルの碁」のブームで子どもにも流行ってうちの子ではセージだけが少々打つがまだ級位者レベルだ。今の時代、囲碁の代わりになる楽しいことはたーくさんある。日本のプロの囲碁が韓国、中国に追いつかれ追い抜かれて20年、どうやら囲碁は発展途上の国が強いようだ。国全体が豊かになると停滞する。日本で囲碁ブームが起きたのは昭和初期、日本の木谷実と中国で見いだされた天才少年呉清源の二人による新布石法が出された時と昭和40年代高度成長期の頃だ。特に高度成長の頃は今と違いレジャーが多種多様ではなかったこともあり囲碁人口も多く、景山利郎の「素人と玄人(昭和45年)」は囲碁の本でありながらベストセラーになったほどだ。

その時期はボウリングもブームが起き、麻雀もそうだった。昭和46年のゴジラ映画「ゴジラ対ヘドラ」には子供映画なのに麻雀シーンが登場したくらい。ヘドラが迫ってきているのにアパートの一室でジャラジャラやっているアホな大人4人。あっという間にヘドラのヘドロが飛んできてやられてしまう。このせいか、麻雀なんかするのはよくないんだというイメージが大学1年くらいまで私にはつきまとっていた。しかしいったんやり始めたらどっぷりでヘドラにやられてもしかたないなあと思えた。ちなみにこの映画、ゴジラ映画の中でも異色作ではあるが相当面白い。MBCがゴジラ展の特集やっていてそこで空想科学読本の柳田理科雄さんが「初めて見たゴジラ映画は『ゴジラ対ヘドラ』です」って言っていた。彼の人生を決めた映画の一つかも知れない。

ふっ、今あげた三つのレジャーっていまだに私の趣味そのものだ。昭和高度成長期からさほど進歩していないってか。

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