2015年8月23日日曜日

甲子園校歌オタク本

その甲子園ロス症候群のせいでネットで高校野球関連本を3冊も注文していた。それが今日届きそれらを持って夕方からの病院当直に出かけた。名勝負物語や甲子園のヒーローといったのは持っているし焼き直しが多いので毛色の変わったのを注文した。

「校歌の大甲子園史:渡辺敏樹著」「甲子園「観戦力」をツーレツに高める本:小野塚康之著」「高校野球100年を読む:小野詳之著」で、最初は甲子園出場校の校歌を300以上歌えるというフリーライターが書いた本、次はNHKの小野塚康之アナの高校野球愛を語った本、最後は甲子園がらみの古本をテーマにした古本屋店主の本だ。いずれも甲子園オタクといえる人たちばかりだ。その中で今日は「校歌本」を読んでみた。


校歌オタクは言う。「ソラで歌える校歌のレパートリーも増えてきて、300校程度は頭に入っていると思う。だが、そんな愛好家は決して珍しくないし、300校程度のレパートリーでは『ビギナーに毛が生えたような』レベルでしかないだろう」
ウソでしょう。300校でビギナー並みとどうして言えるんだ?普通の人からみたら300校なんて超オタクか「基地外」だよ。私は鹿実と樟南はだいたい歌えるが池田やPLは歌詞をみればある程度歌える程度、だいたい知っていると言えるのが10校くらいだろう。甲子園オタクを自認する私ですらこうだから300なんて・・。

数ある中で多くの人に甲子園校歌たるものを知らしめるきっかけとなった高校の校歌があるという。それは1976年夏の優勝桜美林高校歌で最後が「♪イエス イエス イエスと イエス イエス イエスと叫ぼ〜うよ〜」で終わるものだった。ああ、あれかと私にも記憶がある。でも、珍しいな、キリスト教系の学校だからかと思った程度だった。しかし、これはその珍しさで「桜美林ショック」とその世界では言われていて、これをきっかけに甲子園校歌の道に入った人が多いそうだ。

コラムに「校歌マニアでよかったと思うことはあるか?」との問いに意外に役に立つことがあるのだとあった。取材や取引先にたまたま野球名門校出身者がいたりするとスムーズに仕事が運ぶことも珍しくないと。その中でエビちゃんこと蛯原友里がブレイクしたころのインタビュー企画で、著者は彼女が宮崎の佐土原高出身と知ったそうだ。佐土原高は2004年に初出場し初戦勝利し校歌を歌っていた。その明るくリズミカルで変化のある展開の校歌を著者は覚えていた。それで「佐土原の校歌っていい曲だよね」と振ったが「そうかなぁ・・もう忘れちゃいました」という彼女にしつこく食い下がり「♪雲いずる 大海原、海鳴りの〜」と歌って上げたらすぐに思い出したようで「佐土原〜さどわ〜ら〜」と二人で校歌をデュエットし、なかなかの貴重な体験をゲットできたんだとか。(ちょぴり羨ましいか・・)

そこで思い出した。沖縄に初めて出張したとき、そこの病院が医療アドバイザーを招待しこれからの医療とはとかいったお題目で少人数相手に講演会があった。終わって立食で交歓会がありその講師と話すチャンスがあった。しかし医師になって4年目のペーペーがろくに話題についていけるはずもない。でも私は講師の興味を一気に引くことができたのだった。
「すみません、先生の出身校は岩手の盛岡一高ですね。一高の校歌は軍艦マーチですよね」「ええ?知ってるのー、そうだよー」「昭和53年に夏の甲子園に出ましたよね。初戦で負けましたけど・・」「そうなんだよ、それっきり出られないんだ」「でも昭和43年でしたか44年でしたか、準々決勝まで行ったでしょう」「そうそう、その時はもう応援してねー」そしておきまりの質問が来た。「ところで君は何でうちの甲子園戦績までそんなに知ってんの?」
盛岡一高は戦前の盛岡中でメロディーがあの軍艦マーチを同じということで校歌オタクでもない私でも知っていた。甲子園でそれが初めて流れたのは1968年でいきなりの軍艦マーチに世間はびっくりしたと愛読書だった「甲子園グラフィティ」という朝日新聞社の本に載っていたのだった。軍艦マーチは私の好きな歌で10年近く前そればかり集めたCDも買ったことがあり、その1曲目に盛岡一高のが入っていてニヤリとしたものだ。

ここまで書いて振り返れば、私も世間一般から見れば甲子園オタクならぬ甲子園「基地外」と思われているンだろうナー。

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