2024年2月16日金曜日

池之上浩治先生の思い出

この前の南日本新聞死亡広告に元鹿児島中央高校の化学の佐多央先生が亡くなったとあったら、今日は元国語の先生池之上浩治先生が満93歳で亡くなったと広告があった。

ともに娘、息子氏が高校の同学年生というのも共通している。池之上先生は鹿児島中央高校創立2年目から赴任し、鹿中央高愛にあふれた先生で息子氏を中央高に入れたのも当然だったろう。先生は私が高1の時の国語担任でその年が鹿中央高最後の年でもあった。たった1年しか教えてもらわなかったが、文学や本が大好きというのが伝わって来る先生で、例えば最初の授業で「本を買ったらまずこうしなさい。本の最初と最後の表紙と数ページをしっかりと開き形を整えるんだ」と言われたことは、今でもずっと続く私の習慣になった。また「私の2学期最初の授業は毎回これだ」といって渡されたプリントは佐藤春夫の「秋刀魚の歌」の詩で佐藤春夫と谷崎潤一郎、その妻にまつわるエピソードをしっかり教えるのだった。ただ教科書をなぞらえるだけの授業より印象に残ったのは言うまでもない。ちなみに息子氏の「譲治」は谷崎の「痴人の愛」の男性主人公河合譲治から取ったと言っていた。確かにそう聞いたがホントかなぁ。というのも「痴人」に出てくる譲治はちょっと情けない男に映るしー。ま、浩治から一字取って好きな作家の作品から取った意味もあったのだろう。

そんな池之上先生、転任の際の最後の挨拶で言った言葉も強烈だった。「最後に言っておく。甲南高校には負けるな!」だったのだ。そんなあからさまな対抗意識を言った先生は私の人生でそれ以前もこれ以降も一人もいない。鹿中央が創立以来甲南に追いつけ追い越せを目標にしていたのはれっきとした事実で8期生、9期生、10期生の頃には九州大学合格者数で並ぶか1年だけだったか上回ったこともあった。これに対して甲南が本気を出してしまい、私たちの13期生の頃には差は開く一方だった。

私の卒業時には既におらず、アルバムにも当然写真はなかったし、その後の教員人生がどんなだったかは全く知らなかった。養護学校の校長が最後だったのは広告で知れたが、昔みたいに通夜や葬儀に参列するチャンスがあったら最後のお別れがしたかった。せめて先生の人柄や思い出を語り偲ぶことにしようと日記に書いた次第である。

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