2023年7月6日木曜日

「信州浅間嶽下奇談」は本当か

ああ、大谷まったく打てず、チームもパドレスに3連敗、エンゼルスも故障者続出でこの7月はヤバくなってきたな。

また未明に録画済みのNHKの歴史番組・英雄たちの選択の「浅間山大噴火 〜天明3年・驚きの復興再生プロジェクト〜」を見た。普段はこの番組は見ないが、題材の浅間山の天明大噴火には子どもの頃に読んだエピソードのせいで興味があった。実は2005年6月2日と古いこてる日記に書いていて「ずっと心に残っていたこわい話 」というタイトルだ(現在は読めない)。

番組では天明大噴火で一番の被害にあった鎌原村(現:群馬県嬬恋村鎌原地区)では火砕流と岩屑なだれで570人ほどの村民のうち477人の命が奪われてしまった。助かったのは観音堂に避難できた93人だけだった。昭和54年(1979年)、鎌原村の発掘調査が行われた際に、お堂の階段の下からは2人の女性の遺骨が見つかり、それは中年の女性が高齢の女性を背負い、お堂に避難する途中で命を落としたものだった。50段ある階段のあと15段ほどで助かっていたのに・・。
番組の趣旨は、災害後の復興をどのように成し遂げたかであって、江戸幕府の役人根岸九郎左衛門の有能な仕事ぶりや隣の大笹村の名主黒岩長左衛門、干俣村の千川小兵衛らの復興への尽力ぶりなどが紹介されていた。天明大噴火はNHKでは「ブラタモリ」や「明日をまもるナビ」など何度もテーマになっている。しかし私が一番関心のある「ずっと心に残っていたこわい話」の話題はついぞ出て来ない。小学低学年の頃からずっと気になっているエピソードなんだが・・。当時の「こてる日記」から抜粋しよう。

・・小学館の子ども向け雑誌の「小学二年生」だったか「小学三年生」だったか。・・・はたしてあの話は本当のことだったのだろうか。

それは江戸時代、浅間山のふもとでの村の話だった。 ある村人が井戸を掘っていた。ところが水は出てこず何やら家の屋根らしきものがあった。 その屋根をくずして中を見ると真っ暗な中に人の気配がする。驚いたことに人二人がいたと言うのだ。 この二人が語るに、いつかは忘れたが浅間山が爆発した際に蔵の中から出られなくなり、ほかに数人生き残っていたが死んでしまい、蔵にあった芋などを食べ生き延びてきたという奇談だ。

小学低学年向けの雑誌のイラストはおどろおどろしく、村人がひげぼうぼうで地中から這い上がってくる様子は地底人さながらだった。

浅間山、噴火、地中、ひげぼうぼう・・・

これらのイメージは少年の心に深く刻まれ夢にまで出てきそうだった。 ことにその物語の最後の「地底人」のセリフは強烈でこう締めくくられていた。

「なぜじゃ、なぜにここはこんなに明るいのじゃ」

・・・(中略)

どこかにかあのころの「小学ウン年生」はないのかな。もう一度読みたい、見てみたいものだ。

小学生向けの奇談として雑誌に載っていた話だ。私はその50年以上前の雑誌を本当にもう一度読んでみたい。元ネタは狂歌の作者として著名な大田蜀山人が『半日閑話』の中で「信州浅間嶽下奇談」として記していたものだ。要約するとほぼ次の通り。

「9月(文化12年=1815年)頃聞いた話だが、夏の頃信州浅間ヶ嶽辺りの農家で井戸を掘った。二丈余(約6.5メートル)も掘ったけれど、水は出ず瓦が2、3枚出てきた。こんな深い所から瓦が出る筈はないと思いながら、なお掘ると屋根が出てきた。その屋根を崩してみると、奥の居間は暗くて何も見えない。

しかし洞穴のような中に、人がいる様子なので、松明をもってきてよく見ると、年の頃5、60才の二人の人がいた。このため、二人に問いかけると彼らが言うには、

”幾年前だったか分からないが、浅間焼けの時、土蔵の中へ移ったが、6人一緒に山崩れに遭い埋もれてしまった。4人の者はそれぞれの方向へ横穴を掘ったが、ついに出られず死んでしまった。私共二人は、蔵にあった米三千俵、酒三千樽を飲み食いし、天命を全うしようと考えていたが、今日、こうして再会できたのは生涯の大きな慶びです”と。

農夫は、噴火の年から数えてみると、33年を経由していた。そこで、その頃の人を呼んで、逢わせてやると、久しぶりに、何屋の誰が蘇生したと言うことになった。

早速、代官所に連絡し、二人を引き上げようとしたが、長年地下で暮らしていたため、急に地上へ上げると、風に当たり死んでしまうかも知れないといい、だんだんに天を見せ、そろそろと引き上げるため、穴を大きくし、食物を与えたという。」

果たして本当のことなのか?2005年に書いた時は、きっと本当だろうとしていたが、今は作り話だろうという気がしている。

その根拠は33年、米三千俵、酒三千樽というちょっと大雑把で大きな数字が出てくること、それにもし33年後であれば1815年に聞いたという事実が少しおかしいからだ。大噴火は天明3年で1783年で33年後は厳密には1816年じゃないか。1年とはいえ微妙にずれている。まあそのくらいの差は誤差で1815年だったとしよう。で、その年は災害後ちょうど33回忌の年になっていて、観音堂でもその供養が執り行われ石碑を建てて、全員の戒名を彫ったと記録されている。もしも、その年に地下から2人が現れたのなら絶対に公式の記録に残されているはずだ。この災害については実に詳しくしかも多くの記録が残されていることは番組でも触れられていた。なのに、ただの伝聞記でしかない本にあるだけで公式記録がない。この点が決定的におかしい。おそらくは作り話なんだろう。

子どもの頃の鮮烈な読書記憶として残っている噴火で埋められ何十年も生きていた地底人のエピソード、作り話だろうとはいえ私はいつまでも忘れることはない、それだけは言える。

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