2020年2月19日水曜日

「あなたは神様がいると信じますか」エホバの証人について

今日は午後は早帰りだった。カールが所用で沖縄に数日出かけ、ギボヒサコが入院(リハビリ目的)したので、一人でうつらうつら床寝していた。同じように昼寝しているゲンちゃんがそろそろエサをねだる頃の夕方だった。ピンポンとチャイムが鳴った。何か郵便物か宅配便か。寝ぼけ眼だったんでインターフォンから「ハイ」と音声を聞いてみた。

すると、女性の声で「今度吉田インターの近くの会館でXXXのいいお話がありますので是非いらっしゃいませんか」とのことだ。あー、宗教だなと思って「はー、うちは結構です」と断った。「そうですか」とすぐに引き下がるかと思いきや、「あのよろしいでしょうか」ときて「あなたは神様の存在を信じますか?」と問いかけてきやがった。私は何と答えたんだろう。ちょっと正確には覚えていない。「信じます」と言っていないのは確か。「そんなもんいるかっ」とも言っていないはず。「いないんじゃないかな」ぐらいに言ったような気がする。その女性は特に返答することなく、なんだか少し笑われたような気がした。そして「招待の紙をポストに入れておきます」と言って去って行った。ふう・・特に日曜の午前にこの手の宗教は来るよな。カールなどすかさず「うちは結構です」と突っぱねて終わる。でも「神を信じるか」なんて問われたのは初めてだ。

後でポストを見ると小さな紙切れが入っていた。「エホバの証人」からだった。
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エホバといえば医師ならば知っておかねばならない宗教団体である。その教義の詳しいことはともかく「輸血を断固拒否する」という点で扱いが難しくなることがあるからだ。ただ絶対に輸血必要な場合、一応必要性を説明し拒否してその患者が亡くなっても責任は免れるし、説明不十分で誤って輸血したら裁判で敗訴する可能性が高い。もしエホバの証人の子どもが輸血するしない問題が生じた時はどうするか?これは15才以上で自己決定能力がある子なら患者の輸血同意書により輸血を実施できる。問題は自己決定能力がない幼少の患者の場合だが、必要な輸血を親権者が拒否し相対的無輸血や転院の勧告などの方策がとれない時には「当該親権者について親権の濫用として児童相談所等を通じて裁判所に親権喪失の申立を行うことも考慮される」とのことだ。

そもそもエホバの証人の教えってどんなものなのか?少し興味をもった。母親が熱心な信者で子どもの頃いっしょに勧誘について回ったというある女性(いしいさや氏)がエホバの証人に関する漫画「よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話」を書いて評判になっている。

それによると、「エホバの証人の「エホバ」は全知全能の神、イエス・キリストはその息子であり、代弁者である。エホバという神以外は崇拝してはいけません。教えの出典はすべて聖書です。エホバの証人とは、つまり「エホバが正しいと証明する人」ということです。教えを簡単に言うとこうなります。いずれ来るハルマゲドン(世界の終末)の後に楽園がやってくる。楽園を支配するのはイエス・キリスト。その楽園に行けるよう現世ではエホバの教えに従って生きましょう、というものです」とのことだ。

さらに「ハルマゲドンが起こると、地球が崩壊する。その後、信者らが生き残る。エホバの証人の教えに反対した人たちは生き残れません。だから毎週、地域を訪問して勧誘をするのは、生き残るチャンスを与えるため、彼らを救うため、という理屈なんです。よくわからないかもしれませんが、とにかくそういう教えです。エホバの証人では、生きている間の義務は、教えを守るだけ。反対されても、「迫害を受けているのはハルマゲドンが近いからだ」と喜ばないといけません。信者をたくさん獲得しなさい、とか、いくらお金を収めなさい、とも言われないので、他の宗教とは違って社会問題にならず、「被害者の会」がないんです」

でもこの女性はやがてエホバを脱会する。子どもの頃、母のいうエホバの教えで学校で校歌斉唱や国旗掲揚の時に歌ったり起立したりしなかったそうだ。なぜかというと、偶像崇拝が禁止だったから。曰く「争うことも禁止なので、もちろん運動会も参加しません。誕生を祝うことも禁じられていますし、異教の行事への参加も禁止されているので、ひな祭りや七夕やなどの季節のパーティ、誕生会も不参加です。クリスマスもキリストの誕生日のお祝いなのでできません。・・・「ウチって普通じゃないんだ」と気づいたのは、学校に通うようになってからでした」

入信するのはこんな人:入信し洗礼(バプテスマといいます)を受けた人には、厭世的で、世の中が嫌になってしまった人が多い。エホバの証人の世界は、争いや政治もない、キレイな世界に見えますから。エホバの教えを知っている自分たちが賢くて、反対している人は教えを知らない可哀想な人たちだと思っている。だから善意で勧誘するわけですけれど、熱心に奉仕活動をするためには、普通には働けません。社員として働いてしまうと活動、奉仕の時間がとれないので、就職しない人が多かったです。だから、パートやアルバイトで生活費をまかなっています。奉仕は時間を報告しなければいけなくて、長く奉仕をしている人には特権が与えられます。奉仕は平日にもあるので、正社員には難しいんです。

勧誘が嫌でしょうがなかった:「信者の人が宗教勧誘で自宅に訪問に来る」って、みなさんも覚えがあるかと思うんです。でも、私は「来る」んじゃなくて、「行く」側の人間でした。それも、自分で「宗教を広めたい」と思っているわけじゃなくて、母親に連れられていくだけでしたから、本当に憂鬱でした。イヤでイヤで仕方がなかった。子どもでしたから、本当は休みの日は絵を描いたり、友達と遊んだりしたかったです。訪問して話を聞いてくれる人なんて、優しいおばあさんくらいで、ほとんどいません。「お前らは間違っている!」なんて言ってくる挑戦的な人もいるんですけれど、信者の側からすると、「真理がわからないかわいそうな人」なので、何度断られても繰り返し訪問する。嫌がらせとかじゃなくて、親切心なんです。拒絶されることがほとんどだったのですが、なかには、小さい私がパンフレットを差し出せば、それだけは受け取ってくれる人もいる。だから連れて行かれている面もあったと思います。

ムチで叩かれる:いまは表向きにはしないようにとはなっているようですけれど、私の子供の頃は当たり前におしおきがありました。エホバの証人は聖書原理主義。つまり、聖書の言葉を隠喩とは捉えず、そのままの意味で解釈します。聖書に「しつけにはムチで叩く」と書いてあるから、本当にムチ、正確にはムチ状のもので叩くんですよね。人によってはベルトだったり、電源コードだったり。うちの母はベルトを2本用意して「細いムチ」と「太いムチ」のどちらにするか選ばせました。細いムチって、痛いんですよ。おしりをムチで叩かれると、完全にやる気を削がれます。服の上からではなく、服を脱がせたうえで直接肌に叩きつけるので刺すように痛い。ムチで叩かれる前には、何がどうしてダメだったのかを自分で反省させてから、「お願いします」と、自分が納得していることを示します。叩かれた後には「ありがとうございました」と言わなければいけない。でもその行為の後、母は私を抱きしめて、こう言いました。「あなたが嫌いだからじゃないのよ」――。

ムチのことも含めて「普通でない」から、だんだんと違和感を抱いていき、決定的だったのが、「NHKにようこそ!」(滝本竜彦の小説。ひきこもりの青年と、彼を立ち直らせようとする新興宗教の二世信者の少女を中心とした物語)という本を読んだからだった。

「実は、その作中にエホバの証人が出てくることは知っていました。この本は読んではいけないことになっていましたから。ただ、たまたま高校の図書館に本が置いてあって、つい読んでしまったんです。その頃には、自分の環境がおかしいことには気づいていました。でもあらためて「やっぱりおかしかったんだ!」とはっきり分かった。その時はとてもテンションが上っていました」

「もうここにはいたくない!自分の道を歩きたい!」

「母に集会に行かないのを咎められた時に、すべてぶちまけました。「本当は全部嫌だった!」って。母からは、「最近変だよ」「昔より頭悪くなったね」「エホバのことがわからないなんて!」など、いろいろ言われましたね。「NHKにようこそ!」に出会えてよかった。あの本を読んでいなかったら抜け出せなかっただろうし、漫画を描くこともなかっただろうし、一生「奉仕」する人生だったと思います」

「この漫画には、たくさん反響を頂きました。多かったのが「私もよく分かる」「共感できる」という声です。それって、もちろん皆さんがエホバの証人の信者だからとか、新興宗教の二世だから、というわけじゃない。この話が、家族の、あえて強めに表現すれば「毒親」の話だからだと思うんです。親との関係に苦しんでいる人が、共感してくださったんじゃないかと思います」

そして最後に「宗教の自由は認められるべきだと思うのですが、子供にそれを強制することには、考えなければいけない問題があるのではないかと思っています。この漫画を読んでくださった人が考えるきっかけになればと思っています」とまとめている。

彼女を取材した五十嵐大という記者は宗教の問題ではなく親の問題としてエホバを捉えている。

『彼女が描きたかったのは、宗教を断罪することではない。彼女が訴えかけたいのは、「子どもに選択をさせる」「自由を尊重する」ということだ。それはなにも宗教に限った話ではないだろう。たとえば、子どもの将来もそう。家柄や体面を気にして、それを勝手に決めてしまう親は少なくない。けれど、それで果たして本当に幸せになれるのか。幸せというものは、子どもが自ら取捨選択していくことではないだろうか。本作では、「宗教」というフィルターを通し、親のエゴや子どもの自由について描いている。そして、それは誰もが本作の主人公やその母親になり得ることを示唆している。そう、本作の物語は決して他人事ではないのだ』

なるほど。私が子供時代にも「ものみの塔」とか「めざめよ!」とかいうチラシが家に入っていたことがあった。あれはエホバの証人の機関紙だったのだ。ただ読んでも意味が分からず捨てていた。親も何も言わなかった。そして今回、インタフォン越しに何となく笑われた感じがあったのは「真理がわからないかわいそうな人」と思われたからだろう。いやはや、ちょっと迷惑かと思ったがエホバの証人についてお勉強する機会を与えてくれ有難かったですよ、証人さん。

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