2024年1月29日月曜日

三浦先生の訃報

南日本新聞朝刊死亡広告欄に「三浦力(つとむ)」先生が載っていた。

え?!と思ったが、ここ最近は病気がちだったらしいからこういうこともあるかもとは思った。三浦先生は鹿大第二内科の肝臓の元スタッフで私の友人のサブアラドDrの直接の上司でもあった。こてる日記には昨年9月20日の「サブアラド、夕方のニュースに出る」→http://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2023/09/blog-post_20.htmlに三力先生として出ている。弟子のTVでのコメントが素晴らしかったのですぐに電話をし、感想とお褒めの言葉を下さったとか。

それでサブアラドDrに昼にLINEを送って、三浦先生のことを尋ねてみた。普段はあるはずの第二内科からの訃報メールも届いていなかったしー。すると「だからよー。元気そうだったけどねー、何だったのか」と弟子も知らなかったようだ。やはり急病だったのか。となると心血管系か脳血管系の疾患か。実は後でサブアラドDrには訃報通知が来ていて急な脳血管系だったそうだ。すべて家族内で済ませ香典の類いも絶対に受け取らないという遺志だったそうだ。そうか・・。

先生は肝機能のデータを読み解くことが得意でその手の本も出版されたことがあった。いつだったか飲み会の二次会でたまたま私が持っていた患者のデータを見せたら「これはちょっと興味深いね」「また後で」とデータ用紙を懐に入れられた。しかし結局、その肝機能の結果の説明はうやむやになり、もはや永久に聞くことができなくなった。

それと昭和の終わりのころ、なぜかまた二次会の飲み屋で三浦先生と私のボスの渋江先生と3人になったことがあり、酒に弱い私はぐったりとカウンターにうつ伏してしまっていた。すると2人の会話は、海外留学の話になり、教授戦前だった渋江先生は2内科の若手をアメリカの知り合いの教授のいるところに送って勉強させるなどと話していた。それをじっくり聴いていた(聴かされていた)三浦先生は「(渋江)先生、それ私が行きたいくらいです」とか語っていたなぁ。私はアルコールで少々気分は悪かったが耳だけは大丈夫だった(笑)。ま、教授戦に渋江先生は負けてしまってそんな夢のある話も当然立ち消えになってしまったけどね・・。

私は三浦先生には直接指導を受けることは少なかったが、それより二内科囲碁大会で対戦したことがあってハンディは対等だった。30年くらい前の大会では終盤まで熱戦が続き、私がどうにか勝ったが、観戦していた囲碁部出身のきたぐにDrに「いやー、名局だったよ」と褒めてもらったのが印象に残る。その後の対戦でもいつも接戦だった。できればまた碁盤を前に烏鷺(うろ)を戦わしたかったが・・ご冥福をお祈りいたします。

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