しかしやがて一人が体が腫れて死んだ、おそらくはビタミン不足による脚気だろう。これの対策は島に漂着した米俵の米「赤米」から芽が出てるのを発見しており、赤米とは水が少ない陸地でも育つ陸稲の一種で、ぬかはビタミンB1が豊富だ。彼らは、岩と岩のすき間にわずかにある土の上に種籾をまき、肥料として魚の頭や骨を与えた。そして赤米は見事に育ち、1年に20升(約30Kg)収穫できたという。それでも最初の数年で病気や老衰で3人が死亡、その後長い間にだんだん心を病む者が現れ、3人が自ら命を経ち、漂流10年目には生き残りは6人になっていた。その翌年、みんなをまとめていたリーダー役の佐太夫も病気で死に、残りは5人にまで減った。漂着から15年が過ぎると、生き残りは30代の平三郎、50代の仁三郎、60代の甚八、の3人だけとなっていた。人間関係も悪化し、平三郎は一人で衣類や火を独占したりした。そうして漂着から19年、新たな漂着者たちにこの3人は発見されるのだった。
いや〜、素晴らしい番組だった。極限の中でいかに生き残るか、人間のたくましさ、助け合い、しかし時に垣間見える弱さなど子どもたちにも見せたい内容だった。番組では後日談として、14年後のエピソードも紹介されていた。1753年、また鳥島に新たに大阪の船乗りたちが漂着した。彼らは平三郎たちと同じ洞窟を発見し中に入ると、木の板二枚、火打石・釜・包丁などの道具を発見する。木の板には平三郎たちが書いた島で生きるすべが記されており、道具はアホウドリの油で保護されていた。後にまた来るであろう遭難者たちに自分たちの知恵を残して置いたのだった。
その後鳥島には9艘・75人が漂着したが、そのうち62人が本土に生還したという。中には1789年の鹿児島の志布志の住吉丸(三右衛門ら6名)の例もある。彼らが漂着すると、驚くことに土佐国の松屋儀七船の乗組員・長平と肥前国金左衛門船の船頭・儀三郎ら11名が生活していたのだ。三右衛門ら6名が加わり、鳥島の居住者は18名となり、三右衛門らは6年の歳月をかけて船を造り、1797年6月13日、八丈島の南方にある青ヶ島にたどりつき、生還を果たす。↓の写真は鳥島の全図で住吉丸の乗組員から審問した薩摩藩藩医で本草学者の曽槃そうはんが書いたものだ。彼は過去の鳥島漂着記録も参考に、「怪鳥」(アホウドリのこと)や洞穴の場所など詳細に記している。
1841年に土佐の万次郎の乗った漁船は鳥島に流れ着き、5ヶ月後異国船に拾われることになる。この船がアメリカ船ジョン・ホーランド号で万次郎の運命が変わるきっかけになったのだった。その人生はこの鳥島よりも面白いが、有名だし別の機会に話題にすることもあろう。
鳥島は明治になって開拓者が入植したが後に火山爆発で島民125人全員が死亡し、現在は国の天然保護区域となり、人の立ち入りは厳しく制限されている。現代でも絶海の孤島であり続けているのだった。
1841年に土佐の万次郎の乗った漁船は鳥島に流れ着き、5ヶ月後異国船に拾われることになる。この船がアメリカ船ジョン・ホーランド号で万次郎の運命が変わるきっかけになったのだった。その人生はこの鳥島よりも面白いが、有名だし別の機会に話題にすることもあろう。
鳥島は明治になって開拓者が入植したが後に火山爆発で島民125人全員が死亡し、現在は国の天然保護区域となり、人の立ち入りは厳しく制限されている。現代でも絶海の孤島であり続けているのだった。




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