10月12日火曜日の記事だ。
火曜日(12日)・長倉住職から「南風病院の緩和ケア病棟で、南風に勤めておられた先生が亡くなられたそうです・・・」と聞いたので、吉原看護部長に尋ねてみた。放射線科部長だった加治屋先生だった。先生は奄美のご出身で明光学園から鹿大の医学部を卒業していて、凛とした女性だった。がんになってからも動じることなく、素晴らしい生き方を示してくれた。一昨年だっただろうか、鹿島先生とソプラノのコンサートを開催した時には、前日に吐血したにもかかわらず、そのようなことは微塵も出さずに歌い切った。
うわ、同級生ではないか。旧姓永田より子、結婚して放射線科医師として南風病院に勤務されているのは知っていた。入学がいっしょで卒業後はほとんど会うこともなかったのだがまさか亡くなっていたとは。彼女は大口市の明光学園を出て医学部を目指さしのだが実はその学校からそれまで国立の医学部に入った人は誰もいなかった。当時はいまほど女子が医学部を目指す時代ではなく、特にその年の鹿大の女性医学生は少なくたった6人しかいなかった。それを浪人してでも目指したというから一見人当たりは柔らかい中にも芯の強さがうかがえた。私より2歳年上でその頃の2歳の差は相当にあっておねえさんという感覚が強かったな。
「鹿児島市の谷山サザンホールにて、コロナ感染対策予防をしっかり行った上でお医者様でもあられる加治屋より子先生のソプラノリサイタルが開催されました。
より子先生は、癌を患いながらも 大変前向きで頑張っていらして、、、仕事も、声楽のレッスンも、続けていらっしゃり、本当に誰もが出来る事ではないと、とても言葉では尽くせない思いで、ご一緒させて頂きました」↓。そしてブログには「市立病院副院長である時村先生のチェロ演奏とのコラボもありました」とも書かれてあった。時村先生も入学同期だ。また彼の父親は音楽教師で私の中学時代の恩師でもある。時村先生は学生時代鹿児島のオーケストラにも参加していたし音楽はずっと続けていたのだろう。より子先生とも同級生のよしみで伴奏を引き受けたのと思う。吉田尚未さんのブログでは「緩和ケアをなさりながらも、酸素や、止血、お薬で調整をされ、コンサートに望まれたその強さ、生き様は、なによりも強く、周りにいる私達に大きなメッセージを残してくれています。私も、伴奏ピアニストとして、音楽療法士として、本当に沢山学ばせて頂いたコンサートになりました。」と結んでいた。
たぶんこれが最後の歌声、いわゆる「白鳥の歌」だったのだろう。ちょっとな、せつないな。
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