2025年6月22日日曜日

「もっ韓」休刊だって

韓ドラを本格的に見るようになったのは2007年の冬からだった。KKBで毎週土曜昼に「冬のソナタ」を放送していて録りだめしていたのを、見始めたら最後、一気に最終20話まで見ないと気が済まなくなり、病院職員から借りたDVDを繰り返し視聴したものだった。そしてマイ冬ソナブームは続き、それに関する書籍をあれこれ買い求め読みあさった。青雲職員と「冬ソナ会」なる韓ドラ好きな連中との飲食会も開いたりした。その中で、韓ドラ雑誌も紹介されその中から「もっと知りたい! 韓国TVドラマ」という雑誌を定期購読するようになった。この雑誌は韓ドラに登場する俳優、女優へのインタビュー記事がメインで他にもドラマにまつわる様々な話題を提供してくれ、2ヶ月に1回の発行が待ち遠しいくらいだった。で、今日その第127号が届いた。いつものようにパラパラとめくって最終ページの編集後記を見て「ええっ!」と思わず声を上げた。

「休刊のお知らせ」

いつも「もっと知りたい! 韓国TVドラマ」をご愛読いただき、誠にありがとうございます。さて、読者の皆さまにお知らせがございます。「もっと知りたい! 韓国TVドラマ」は、この127号をもちまして休刊することになりました。2003年8月の創刊以来、小誌は韓国ドラマと俳優を中心に、韓国エンタメ界の最新情報をより早く、より正確にお伝えするために頑張って参りました。その間、小誌をご愛読くださった読者の皆様に心より感謝を申し上げます。また、この雑誌が出来上がるまで、さまざまな形でご協力くださった関係者の皆さまにも深くお礼を申し上げます。突然の休刊案内で大変恐縮でございますが、何卒ご理解いただけますようお願い申し上げます。これまでのご協力と応援を胸に刻み、今後またお目にかかれる日が来ることを願うばかりでございます。皆さま、22年間、本当にありがとうございました。

2025年6月 編集長 李 秀香

あれ〜、休刊だってぇー。この18年、毎日のように手に取っては韓ドラ情報を仕入れ、繰り返し読むものだから、例えそのドラマを視聴しなくてもどんなドラマかはおおよそ把握出来ていた。実は最新の20巻くらいを1階トイレ横の置き棚に置いていて便器に座っては読みふける習慣が付いていたのだ。もともと共同通信社が発行し(のちメディアボーイへ移管)、他の韓ドラ雑誌に比べやや格調が高く、とにかくインタビュー記事が多く、写真もカメラマンがしっかりと撮ったものが多く綺麗だった。しかしここ最近、雑誌のページ数がかなり薄くなってきていたのにはさすがに気がついていた。この2年ほどは96ページで、それ以前が112ページ。10年ほど前は144ページはあった。さらに最初の何年かは180ページ以上が多く、「チャングムの誓い」が特集された第7号など196ページもあって最近のもののちょうど2倍ものページ数だった。それでいて当時は定価が1260円、今は1650円もしていた。↓が第1号から第13号まで並べたものだ。「冬ソナ」のペ・ヨンジュン、パク・ヨンハ、「オールイン」からイ・ビョンホン、「天国の階段」のクォン・サンウなど当時の韓ドラスターらがどアップで表紙を飾っていた。女優の表紙は少なく、読者層が女性だったからか中身も俳優中心の作りだった。

↓が昔と最新刊の厚さ比較。まさに倍量の差がある。

どうして休刊の憂き目にあったのか。これはもうネットの影響が大きいだろう。わざわざ雑誌を買わなくてもネット界にドラマの情報はいくらでも転がっている。いや、それよりもこの10年ほどのドラマのネット配信の影響が一番かもしれない。私が特に熱心に韓ドラを見ていた2010年以前は韓国で放送されたドラマを見るには、DVD発売や貸し出し、そしてTV放送が始まるまでおよそ1年ほど待たねばなかった。ちょうどその頃雑誌で記事になってリアルタイムに両方を楽しむ感じだった。ところが最近は現地放送された翌日くらいにはNetflixやAmazon Primeなどですぐに配信され視聴出来るようになった。そのドラマのことをよく知りたいと思っても雑誌で取り上げるのは早くても数ヶ月後だ。となると、視聴し終わりやや熱が冷めたころにそのドラマの詳しい情報や俳優のインタビューを読んでもちょっと遅いなぁと思うことが多くなった。視聴している前後に雑誌に載っているような記事を読みたいのになんかタイミングがズレてきていたのだ。

私はそれでも数年前のドラマ記事を参考に面白そうなドラマをあえて見ることもあったが、これだけネット配信でのドラマが多くなると最新話題作に引きずられやや古めのドラマまで見る余裕はあまりなくなってきている。「もっ韓」の休刊も時代の流れなのかなぁ・・・。

2025年6月21日土曜日

それ帯状疱疹?虫刺され?

朝はドジャース対ナショナルズの試合をTV観戦をした。カールはというと、左の脇腹が「なんか虫に刺されたのかしら、いや、もしかしたら帯状疱疹かも」と心配して皮膚科受診に向かった。私が見るに帯状疱疹よりは虫刺されかなぁ。でも帯状疱疹って後からブツブツが増えてかなりひどい形状になることもある。カールはヨーコバーバがそのために体幹がかなりやられてひどい目に遭っているので気が気でない。「明日は日曜だし帯状疱疹だと大変だから皮膚科に行く」という心境だったのだ。私も「やはり専門家に診てもらった方がいいかも。帯状疱疹なら抗ウイルス剤を1週間内服する必要があるしー」と同意したのだった。

ドジャース対ナショナルズは意外に接戦になっていた。ナショナルズは2019年にワールドシリーズ優勝してから主力選手が散らばってから低迷、若手中心のチームになって今年も11連敗などして苦戦を強いられている。しかし最近持ち直しつつありドジャースも油断は出来ない。それにしても大谷最近調子が上がってこない。ヒットもホームランも出ない。今一盛り上がらない観戦をしていたらカールが帰って来た。

「もうさー、診察室に入って脇腹見せるなり『あ、帯状疱疹じゃありませんよ』って帯状疱疹のタの字も言っていないのに院長先生にそう言われてしまったのー。単なる虫刺されだってー」いやー、だったら良かった、安心だ。で、もらってきた軟膏が「ベトノバールG軟膏」というヤツで、ハテこれは・・成分を見たら「リンデロンVG軟膏」そのものだった。だったらうちに2、3個は余りがあった。

まあ私が自信を持って「これは虫刺され、リンデロンでも塗っておけばいいさ」と言えればカールに無駄なことをさせずに済んだのにねぇ。この辺りがたくさん皮膚病変を見てきた専門家との違いだ。まあ、同じことは内視鏡所見を一目見て「これは〇〇だから大丈夫」って私には言えても、そうでない他科の先生には判断しかねるってことか。餅は餅屋に任せれば安心ってことだった。

2025年6月20日金曜日

カリーナとデンコー親父の思い出

今日の外来にはずっしり師長が付いていた。そこでちょいと話題になったのがある女性患者の名前で、実際は漢字表記だが「セレナ」であった。

「今風ですね」「何か車の名前みたいだな」「ああ、ええとセ・・リカでしたっけ」「うん、トヨタのセリカとカリーナって兄弟車があったがそれの合成みたいな名前だ」

そう、私は初めての車が白いカリーナ(二代目)だった。ハードトップという2ドアで真ん中にピラーのない当時流行っていた型の車だった。私が高校3年で受験勉強をしている時、デンコー親父が「いいか、こてる。お前が国立の医学部に入ることが出来たら車をしかも新車で買ってやるぞ」と発破を掛けてきた。ただ、そんなことを言われても高校生にとっては別に車なんか興味もなく、ただ早くつらい受験勉強から解放されたくて頑張っていただけだった。首尾良く合格出来てもすぐには車に興味はなかった。1年生後半になって自動車学校に通いだし、路上運転をし始めた頃になって、俄然車に興味が湧いてきた。確か新車を買ってくれると言っていたな。親父はトヨタにずっと乗っているし、まあトヨタの中から手頃な車を選びたい、とカリーナという車に目星を付けた。免許を取ったのは1979年1月で早速車選びに入って親父に「カリーナがいい」と伝えていた。

ある日、学校から帰ってみると、車が来ていた。デンコー「おい、てる、これでどうだ」と見たら、何とカリーナはカリーナでも中古の初代カリーナだった。しかも色が茶色のダサいヤツ。私は最初からオートマチックトランスミッションを希望していたこともあって「イヤだ、これは。それにとーちゃんは新車を買ってくれると言っていたじゃないか」と、ぶーたれた。新車がいいなんて私ではなく親父が元々そう言っていたのだ。約束が違うじゃない。↓はネットから拾ってきた画像だが、まさにこの車と同じ型、同じ色だった。
さすがに親父も仕方ないと思ったのか新車のカリーナを買ってくれることになった。しかし当時は排ガス規制のためにエンジンがパワーダウンされていて加速が弱い車種が多かった。それも分かっていたのでカリーナの排気量1600cc、1800cc、2000ccの中で私は1800ccを希望した。オートマチックはパワー不足も予想されたからだ。しかし親父は「だめだ学生のお前にぜいたくはさせられん」と1600ccでいいと主張した。その時のセールスマンも「1600でオートマはまず出ない。初めて売りますよ」と言っていたくらいで、1800は5万円高いだけだったが、親父はゆずらなかった。新車を買ってもらうという点は約束違いでもなく私は受け入れるしかなかった。

車は春休み3月下旬に届いた。しかしその時私は親戚のバタフジ従兄のいる滋賀医科大に遊びに出かけていて、初めて乗ったのは数日後だった。まあ初めてのマイカーで単純に嬉しかったな。
ただ、先に試乗していたデンコー親父がこんなことを言いやがった。「あん(あの)車はアクセル踏んでも全然スピードが出ん(出ない)。どんくさいのはお前に似たからだ」な、なにーーっ!だから排気量をもうちょっと大きくして欲しいと頼んだんじゃない。それを私のせいにするとは・・。全くゴーイングマイウェイ、自分がえらくて他人をけなすのは全く平気なデンコーらしいエピソードであった。

それを聞いたずっしり師長は「面白いお父さんだったんですね」だって。違うってばー。

2025年6月19日木曜日

人文字作るには我慢が必要

昼休みに病院防災訓練があった。病院隣のさわやか薬局裏の駐車場に集合し、消火器訓練などやったりするのだが、今回はそれが終わった直後、さらにサザンブルーのローンガーデンに移動し、開院45周年の人文字を作ることになっていた。ちょうど5年前も40周年の人文字を作って撮影した。ただその時の私は内視鏡検査が終わらず参加出来なかった。

例年は5月と11月に訓練はあるのになぜか今年は6月でしかも梅雨の晴れ間でえらい暑かった。日差しが強く帽子やほおかむりしている職員もいた。で、芝生に移動し事前に下書きされた4と5の数字の上に立った時には帽子もマスクも全部取り払うよう指示が出て直射日光直撃と相成った。

↑写真の私の背後にいるお方が可愛いんだ理事長。グラサンがマッチしていかにもドンって感じ。で、みんな集まってどこから写真を撮るのかと思いきや、業者が用意したドローンが飛ばされ、それから撮影するらしい。
隣で、信号Drが「ドローンって英語のdroneに由来し、元々は「雄蜂」を意味なんですって。この前TVで解説されていました。確かに音が蜂の羽音に似てますねぇ」とブォーンという羽音が頭上からする中語ってくれた。今ではドローンは爆弾も落とす不気味な雰囲気すらある。撮影には10分以上かかり、途中から理事長は「おーい、もういいじゃないかー、暑いぞー」とぶつぶつ不満を言い始めていた。いや、みんなそう思っているはずだが正直には口に出せない。
ドローン操作者はクスノキの木陰で操作をしているもんだからなおさら文句も言いたくなる。
ま、来月にある45周年開院記念パーティに使う写真であって、今週はこの他にも理事長や私を始めインタビューなども行われた。良いもの作るには多少の我慢も必要だ。14時過ぎてようやく「OKです。終わります」の声に、みんなホッとして、また病院へ戻っていったのだった。

2025年6月18日水曜日

塩瀬監督を偲ぶ

元鹿児島商業野球部監督で夏の甲子園ベスト4の実績もある塩瀬重輝さんが亡くなったと南日本新聞に大きく出ていた。 MBC(南日本放送)でも映像付きでニュースになっていた。

塩瀬監督を知ったのは1986年(昭和61年)の夏の甲子園の時だった。久しぶりに甲子園出場を果たした鹿商の監督として準決勝まで勝ち進み、鹿児島県二度目のベスト4進出で当時の県民を大いに湧かせたものだった。あの時の鹿商は優勝した天理、準優勝の松山商に匹敵する力があった。その証拠に秋の国体では優勝をしている。

私とは医師と患者として、そして高校野球好きとして20年来の付き合いだった。会えばたいてい高校野球の話題になり、外来がヒマだったら診療そっちのけで高校野球談義をしたものだった。特に日曜当番で他に患者さんがいなかったときなど30分とは言わず語り合う羽目になり、終わって監督は「いや〜、良か先生に出会った」と喜んでくれていたなぁ。こてる日記ではこれまで「シオシゲ」監督「シオシゲ」さんの名前で何度も登場している。→https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/search?q=シオシゲ

8年ほど前の塩瀬さん↑。後ろは加治木高校時代の教え子でもあるシホねえNs。

諸事情で鹿児島市内の病院に転院療養となって2年以上が過ぎていた。80歳も後半になっていたし、今回のニュースでは驚くより「そうか・・やっぱり」という気持ちだった。青雲会病院に入院中に甲子園大会があった時など、観戦に熱中し「TVカードがすぐになくなってかなわん」とぼやいていたなぁ。野球が好きで若い頃は広島商、中京など伝統強豪高に手弁当で出向いてどのような練習をすれば勝てるのかなど教えを請うこともしたそうだ。

最近鹿児島県の高校野球は神村一強だが、10年くらい前は「小田(神村監督)君にも地域密着の態度で地域に愛されるようにしないといけないと言いたい」と私には語っていた。その声が届いたかどうかは知らないが、神村学園が全国的な強豪高になって2年連続夏ベスト4を達成したと知ったらどうだったかな。病状からしてTVは見ることは出来なかったはずで、出来ていたらきっと大いに喜んでいただろう。鹿児島の高校野球に大きな足跡を残した(8年ほど前かな、「そう、ネットでも評価されていますよ」とパソコン画面(↓)を見せたらニヤッとして満足げな表情だった)塩瀬監督のご冥福を祈ります。

2025年6月17日火曜日

インプラント終了

 いやー、大谷、1回だけの投手復帰で1点取られはしたけれど、なかなかいい投球ぶりでよかった。まさか100マイル(160km/h)以上も球速が出るとはねぇ。シンカーも良かったし今後に大いに期待が持てる内容だった。

今日は午後は半休を取っていた。インプラントの最終段階に来ていたからだ。14時半に歯科医院に行き、仮歯を外し、セラミック製の本物のインプラント歯を入れてもらった。どれがインプラント歯か分かるかな?(下の銀歯の上にある2本の歯がインプラントである)

だが、私は入れてもらったにも関わらず、そのことに気づかなかった。レントゲン写真を撮ってもらったのにねー。
というのも、先月仮歯を入れてもらってからは、ほぼインプラントと変わらなかったからだ。仮歯が本歯に代わっただけで違和感がなかった。今後はまたしばらくは調整が上手くいっているかまた何回か通って終了だ。部分入れ歯の時とちがって食事がまったく違和感なく出来て、入れ歯洗浄なども不要なのはまったく有り難い。私の場合結局7ヶ月かかったが、治療期間がかかりすぎるって感覚はなくなっていた。

帰宅してほっとしたのか自然と仮眠を取っていた。夜は空港まで沖縄から帰って来るカールのお迎えだ。その前に部屋の掃除もしておこう。帰りの車でカールの話によると、病院の待合室でヨーコバーバが大谷が登場するのをちゃんと分かっていたという。多少の認知があっても大谷の存在って大きいんだ。かつては長嶋茂雄がそうだったかもしれないが、日本人にとってのスーパースターは今は大谷翔平、彼で間違いないネッ!

2025年6月16日月曜日

大谷、投手復帰だってヨ〜

夕方のニュースで「明日のパドレス戦で大谷翔平が1イニングだけだが復帰登板をする」とあった。これには驚きと戸惑いを感じた。確かに投手復帰に向けて準備中とその練習の様子も逐一メジャーリーグ関連番組で報道されてきていた。しかしシミュレーションピッチングを繰り返しているだけで、まだ本番には若干時間がかかるだろうというのがもっぱらの意見だった。しかし、ドジャースの投手陣の不足もあり、また昼間に模擬投球、いったんクールダウンして夜にDHとして調整するというのがまるでダブルヘッダーに備えているようで体力の負担があったということで大谷自身が実戦投球を希望したそうだ。なるほど、実際に1イニング投げてその後DHとして打席に立つ方が体への負担も軽いだろう。経験も積めるわけだし、徐々にイニング数を増やしていけば1ヶ月くらいで先発本番OKだろうて。

このニュースの後、NHKがBS放送から総合放送へ急遽切り替えるってなったし、ネット界でもこの話題で持ちきりになった。それだけ大谷の二刀流復活への期待は大きいということだろう。NHK総合での放送で思い出すのは、昨年ポストシーズンの対パドレス戦で2勝2敗同士で最後の一戦が総合での放送だった。鎌倉観光をしていた私はスマホ片手に歩きながらNHKプラスで実況を見ていた。ワースポ&MLBでの解説の人が「新幹線の中はみーんなスマホでNHKプラスを見ていたいましたよ」と証言していたが、私だけでなくみんなもそうだったかと思ったし、実際の視聴率も20・3%と異常なほどで史上最多となる1290万人の視聴者数を記録したのだった。これはアメリカの視聴者数も超えていたらしく日本国内での関心の高さにあちらの関係者も驚いたそうだ。

明日はなんとかして診療の合間に見られないかなと今から策を練っている。私はNHKではなくSPOTVNOWにこの時期だけ加入しているのでそっちをチラチラと見よう。SPOTVNOWは録画視聴が出来るのがいい。若干遅れて録画で見ればきちんと仕事を済ませてのチラ見も可能だ。ま、それだけ今の大谷は見たい選手ってことだな。

2025年6月15日日曜日

それ、本当に27cmサイズ?

雨の日曜、夕方になって外に出かけた。夕食をどこかで食べるのと、靴屋でちょいとした調べ物があったからだ。

駐車場があって靴を売っているところといえば私にはABCマートしか思い浮かばず、与次郎ヶ浜のその店に行ってみた。単独の店ではなくショッピングモールの一角にあり、事前に調べていたニューバランスのCM996 GORE-TEX(ゴアテックス)防水用を探した。しかしCM966シリーズはあるが防水用のゴアテックスはなかった。まあそれでもよい。一番の目的はCM966が自分にはどのサイズかを知ることだった。私はニューバランスの27cmのスニーカーを持っているがどうも銘柄によってサイズがまちまちらしいのだ。カールに「実際に試し履きしないとネットで買ってはダメよ」と釘をさされていた。それもそうだと試し履きに出かけたのだった。

で、27cmのCM996を履いてみてびっくり。ぴったりどころじゃない。きつくて「これは絶対に27cmじゃ履けたもんじゃない」だったのだ。いや〜、やっぱり言うこと聞いてよかったよー。
後でネットでの評価に「このシリーズのニューバランスはプラス1cmくらいに割増しして選んだほうがいい」とあってなるほどと思った。28cmを履くとちょうどくらいだったのだ。防水用も売っていないし、店員も今一要求に応えてくれなくて出て、近くのフレスポジャングルパークの靴屋に行ってみた。そこのSHOE •PLAZAという店を以前利用したことがあり、そこでは最初から「防水用のスニーカーはないか?」と尋ねてみた。すると、スケッチャーズやセダークレストのスパットシューズなどを店員が紹介してくれた。どちらも手を使わず立ったまま履けるというのが売りだ。しかも1万円を切っていて値段も安い。履き心地はまあまあかな。ていうより、私の足にぴったりサイズが少なく即決する気になれなかった。

私が防水シューズを買おうという気になっているのは、GW時の岩手、小岩井農場で一件で、濡れた芝生を歩いていたらスニーカーがびしょびしょになったのが気持ち悪くてねぇ。それに昨年秋の空港での防災訓練でも皮靴だったけど濡れすぎてしばらくその靴を履けなくなったこともあり、多少の雨や濡れ場でも靴下が濡れないシューズが欲しくなったんだ。梅雨にも入ったことだしねー。

ただ、シューズって長さや幅、履き心地って実際に履いてみないと分からないことが多い。もうしばらくあちこち探すことになりそうだわ〜。

2025年6月14日土曜日

関東、北海道ではほとんど食べないもの

カールが沖縄に所用あり、朝一番の飛行機で送っていった。

帰宅後はゆっくりし、ドジャース対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦を見つつ、昼食をしデザートに枇杷の瓶詰めをヨーグルトでまぶして食べた。これ、今月始めに枇杷の実を一個一個皮を剥いて種を取りだし、種の回りの薄い皮も剥いて何百個も集めて、煮て作ったものだ。ほとんどカールが一人で作ったが私も少しだけ皮剥きを手伝った。えらい根気のいる作業だった。
カールは「とっても面倒だけど(枇杷の実を)捨てるのももったいないから」と、小さくて食べるのにはちょっと物足らなかった今年の枇杷を最大限利用したのだった。
瓶詰めと比較的実りのよかった枇杷はそれぞれ子どもたちに送っておいたが、先週セージとチッチのところに行ったカールから聞いて驚いたのが、「(セージの妻の)マーヤさん、枇杷を食べるのが生まれて初めてだった」ってこと。マーヤさんは茨城出身で、隣の千葉は枇杷の生産地でもあったはずだが・・。それとチッチからは「北海道出身の友人に上げたら彼も『枇杷は初めて食べた』と言っていた」そうだ。まあ北海道ではなかなか手に入らないだろうからねぇ。関東でも実際は枇杷ってそんなに生えていないんだろうな。鹿児島や長崎、九州では枇杷って庭先や路地にも生えていて時期になるといっぱい実を付けるから「食べたことがない」ってのは考えられない。ともかく「美味しかった」そうで、こりゃ来年はもっと大きくて立派な実がつくようちゃんと剪定、摘果をしないとな。
そんな事を思いつつ、ヨーグルトの酸味と枇杷の甘みが渾然となったこてる家特産「ビワグルト」を一人食べて悦に入っている私であった。

2025年6月13日金曜日

ノリヒック叔父さんの通夜

朝、チエコンさんからLINEメールに「ノリヒック叔父さんが亡くなりました。詳細はまだわかりませんので、わかり次第お知らせします」とのメールがあった。しばらくして「今夜お通夜になりました。頴娃のみやび会館です。明日が告別式です」とあり、「通夜に行く」と返信をした。ノリヒックとネキバー夫妻はついこの間、墓参りの際に星娘従姉さんから「二人とも施設に入っている」と聞いていて、一応「ノリヒック叔父さんは体は問題ないが・・」ということだったが、何せ昭和2年生まれの今年で98歳になるという超高齢者だったから急に亡くなったと知ってもさほど驚きはなかった。大往生と言えるだろう。

明日の告別式参列は、カールは明日朝沖縄に行くし私も用事があり無理だ。で、通夜も病院が終わってからとなると19時以降になりそう。カールにその旨伝えると、なんと夕方はキッチンの入れ替え工事のために業者が来るため通夜にも行けそうにないとのこと。それで私だけいったん帰宅後、喪服に着替えて一人で田舎に向かった。

葬儀場のみやび会館は一応場所は知っているが、近道があるはずとナビを設定し、知覧から加治佐、青戸を経由して石垣に向かう道を通った。頴娃町生まれの私でもこのコースはほとんど使ったことがなく何か新鮮だったな。加治佐地域は頴娃大川に流れ込む加治佐川や高校時代のクラスメートや外科の大先輩の出身地で名字もそのままなので地名としては知ってはいたが、実際に通ったのはおそらく初めてだった。夕方の黄昏(たそがれ)時だったせいか人っ子一人いず、「ここは限界集落か」といぶかるほど寂しい所だった。ただ開聞岳の眺めはよかったかな。

会館に着いたのは19時20分ごろ、ようやく周囲が暗くなり始めていた。会場にはヒラーキ始め、ほぼ全員が従兄弟姉妹だった。ネキバー叔母さん92歳は体調が今一つらしく夫の通夜には来られなかった。親世代で来ていたのがブンコ叔母さん89歳だけで、残るのがあこネーサで今年で96歳になる、無論通夜には来られなかった。施設入所で胃瘻造設後1年以上経過し比較的安定している。ふう、後2、30年で我々世代が同様の仲間入りやな。
ノリヒック叔父さんには親戚のオジさん連中と比較してもお世話になった方だ。親戚の中で唯一囲碁の相手が出来る人で、私とはいい勝負だった。そうだ、2011年のトシバーの通夜でこのみやび会館に一晩泊まった時、磁石碁盤で一局打ったなあ。思えばそれが最後の対局になってしまった。中高生の頃は叔父さん宅でヒラーキとともに大晦日から正月にかけて年越しを過ごしたものだった。4才年下のシューイチ君ともその頃まではいっしょ遊んでいた。通夜にはシューイチの孫3人が県外から来ていた。シューイチが出張先のホテルで確か脳出血かなにかで急死してもう8年になるという。長男は41歳になったそうでそこでハタと思いだした。昭和59年のシューイチの結婚式に出席し、その時も私は当然写真を撮っていて、新妻のお腹がほんのり膨らんでいるシーンも写っていたね〜。あの時の子だったか。
通夜は従兄弟会の様相を呈していたが20時半を過ぎたあたりでいったんお開きにしようとなった。明日の告別式もあるしで、私もそこから帰路に着いた。今度は通い慣れた海岸線を通ってから知覧へ向かい川辺鹿児島線から帰宅した。

若い頃や子育ての頃は冠婚葬祭は少々面倒に思っていた時もあったが、最近は冠婚葬祭に出るのは通夜、告別式ばっかしで、婚は年1回程度、ココちゃんが生まれたので冠と祭は1、2回はあるか。親戚との付き合いは減って来ているのでそうした冠婚葬祭での集まりは貴重だと思えるようになった。今回は従兄弟連中の健在ぶりと子世代の状況が分かって何よりだった。

2025年6月12日木曜日

息子同士、バッタリ

例によって前夜から深夜、未明に至って居間で床寝をしていた私。LINEのメールが何通も届いていたのに気づいたのは夜が明けてからだった。全部で5通。それらはテルとサブアラドDrからだった。しかもどちらも同じ内容だったのだ。

テルがサブアラドDrの長男「はこがまえ」君と偶然出会ったという話題だった。テル「サブアラド先生の息子さんに会ったよ」「めちゃくちゃたまたま」、サブアラド「大分の息子さん?左はワタスの息子」「知り合いとの飲み会にたまたまいたらしい」とあって写真付きだった↓(例によってイラスト化)。
テルからのメールによると、知らないもの同士会話していたら「サブアラドって名字で、話を聞いてたら、んー?んー?知ってるなぁーってなって」「お父さんネット麻雀します?
とか聞いてたら、あっちもこてる先生?って」その店のオーナーが大分にも来ることがあってテルの知り合いだった縁で店に行ったらしい。そこで二人は赤ちゃんと幼児のころに会って以来30年以上ぶりの出会いを果たしたのだった(正確には1992年12月20日に当時私たちが住んでいたアパートで会っているのは確認できた)。

親同士は毎日のようにメールや電話などで連絡を取り合っているが、息子同士はおそらく初めて口を利いたわけだ。2週間ほど前は私が偶然天文館でサブアラド夫妻とばったり出会っているが、それ以上の奇遇とでも言うべき出会いだった。サブアラドDrが「縁を感じるねー」とつぶやいていたが、まさに。こんなご縁、大事にしましょうねー。

2025年6月11日水曜日

最強のアロハシャツ

今日は久しぶりにトムとジェリーのアロハシャツを着て勤務した。

3年前に沖縄に行っていたカールが興奮して「すっごくいいアロハがあった」と画像付きでわざわざ送ってきたのが、このトムとジェリーをデザインした↑のアロハだった。当初は「え、こんなんのがアロハなのか」と訝りつつもまあ言うとおりに着て出勤したのだったが・・・。

それが周囲から「可愛い」「素敵」「格好いい」と言われまくったのよ。特に女子職員からの注目はすごくて「先生、このシャツ可愛い」って言われるのが当たり前で、時には高齢の女性患者からも「いいですねぇ」と言われたりもした。さすがに去年は以前ほど言われなくなってきていて、それは周囲も見慣れたということだろうと思っていた。

でも、今日これを着て仕事をしていると、やはり注目度が高く、5人以上の女子職員に「可愛い」「いいわ〜」と言われたんだ。もう最強のアロハシャツって言っていい。ただ、今でもどこがそんなにいいのか、私にはよく分からないんだ。この前、かけ出しのビートルズを見出したのは若い女子連中だったと書いたが、たかがアロハにしても女子連には見る目があるんだと思わざるを得ない。私も着ればなにかと注目を浴び「いいね」と言ってくれるのでまた着たくなる。結局、こてる先生もミーハーなんですよ〜(⌒о⌒)。

2025年6月10日火曜日

体のお悩みですか、AIに任せなさい

内視鏡室の茶の里Nsが「自分のことで・・」と健康相談にやって来た。「どうしたん?」

「私、昔から胆石があるって言われ続けてきているんですけど、このまま放置しておいていいんですかねぇ」

まあよくある相談だ。胆石の正常、腹部症状の有無など詳しく聞けばそれなりにアドバイスは出来る。でも、ちょうど別の患者の仕事も残っており、ふとひらめいて「そうだ、そんな一般的な相談ならChatGPTに質問してみたらいいよ」「は?」「いいかぃ、私が今やってみせるから」そう言ってChatGPT先生に以下のように質問してみた。

私の知り合いの看護師51歳は、健診で胆石があり小さな石がたくさんあると言われています。経過観察のほか、場合によっては手術も考慮されてはいかがと言われています。でも、何の症状もないし手術も怖い気がすると言っています。今後どう対処したらよいでしょうか。

すると10秒ちょっとで返答があった。

ご相談ありがとうございます。
胆石が見つかった場合の対処については、「症状があるかどうか」「石の性質や大きさ」「年齢や他の病気」などによって判断が分かれます。以下、一般的な考え方をお伝えしますが、最終的な判断は担当医とよく相談することが大前提です。

今の状況:「無症状の胆石」

ご友人は「小さな胆石がたくさんあるが、症状なし」ということなので、おそらく「無症候性胆石」に分類されます。

無症候性胆石への一般的な対応は原則、経過観察(手術しない)が基本です。
胆石のある人のうち、症状が出るのは約20~30%程度(多くは生涯無症状)。
年1回くらいのエコー検査などで経過観察されるのが一般的。

ただし、手術(胆のう摘出)を考慮することもある状況:

以下のようなケースでは、無症状でも手術を検討することがあります。

● 胆のうがんのリスクがある場合:
石が多く胆のう壁が慢性的に刺激されている(胆のうポリープがある/石が胆のうの出口を塞ぎそうなど)
胆のうがんの家族歴
胆のうの石灰化(磁石胆のう:がんのリスク↑)
● 糖尿病や免疫抑制薬を使っている人
感染症が起こった場合、重症化しやすいため予防的に手術を考慮することがあります。

💬 ご友人が言っている「手術が怖い」という気持ちもとても自然です。

現在の手術(腹腔鏡下胆のう摘出)は比較的安全で、入院も数日で済むことが多いですが、やはり「無症状」の場合、急いで決める必要はありません。

今後の選択肢として:

・年1回のエコーなどで経過観察(症状や石の変化がなければこのまま)
・症状(右上腹部の痛み、背中の痛み、吐き気など)が出てきたら、早めに医師に相談
・気になるようであれば、消化器専門の病院でセカンドオピニオンを受けるのも安心につながります

👩‍⚕️ 最後に:

ご友人は医療職の方ということなので、情報を冷静に捉えていらっしゃるとは思いますが、「怖い」という気持ちはとても自然です。その気持ちを否定せず、手術を前提にせず、きちんと経過を見ていくという選択も立派な方針です。何か症状が出たらすぐ医師に相談する体制があれば、今すぐの手術は不要な可能性が高いです。心配なことがあれば、またいつでもご相談ください。

いや〜立派、実に見事な返答だ。私はおおむね同じ方針で説明は出来るが、ここまで丁寧かつ詳しくは返答出来ない。だから条件を正確に伝えれば生成AIは医者とほぼ同様のアドバイスをしてくれる、そんな時代になったのだ。茶の里Nsは驚きかつ感謝してくれたが、して見せた私の方がもと驚いたかも知れない。AI先生、これを使わない手はないな!

2025年6月9日月曜日

私の好みは〇〇です!

今日の朝礼スピーチは医療事務のリバレーナさんだった。まずは自己紹介から入るのが定番で、年齢、出身、経歴などが露わになる。彼女はまだ20歳代後半で人生まだまだこれからだが、病院に勤め始めてすでに5年になっていたとは知らなかった。彼女の2、3年先輩の森舞さんも似たような経歴でスピーチでは好きなことに韓ドラ鑑賞と旅行を上げていた。それでしばし私とは韓ドラトークを病院受付でするようになった。リバレーナさんはどんな趣味というか好みがあるのだろう。

ほう、野球観戦と編み物だと。プロ野球はソフトバンクホークスのファンということだ。そこはいっしょだな。彼女が去年観戦しに行った試合は全部ホークスが勝ったんだって。勝利の女神だぁ。
あは、それと似ているというか逆パターンなのが出水のスチョル先生かとチラッと思った。以前「阪神タイガースの応援に試合を見に行くとたいてい負けるんよねぇ」ってボヤいていたもん( ・_・;)。

あと、お宝写真が2年前のWBCの宮崎キャンプで山本由伸選手の写真を撮ろうとしたらちゃんとカメラ目線で応えてくれたというもの。いつかその写真にサインしてもらうのが夢だってさ。ふむ、仮に私が同じことをしてもこんな笑顔で対応してもらえたかどうか・・。

こうしたスピーチで互いに好みが分かると楽しいネ。イヌやネコという一般的なペットからはてはウサギを飼っているとか、意外な音楽や本やスポーツが好みだったりと聴いていて楽しい。職員スピーチは各自が好むものを思いきっり語る場にすれば語る方も聴く方も有意義で楽しい時間になると確信したわ〜。

2025年6月8日日曜日

正反対の2枚の写真の相手とは

結局、ドジャースは点が全く取れずに9回表にかろうじて1点を相手のミスで取ったものの、その裏に1点取られ、また負けてしまっていた。打線が売り物のチームなのにねぇ。まあ長いシーズン、こんな時もあるだろうて。

体調はあんまし良くない。昨日休めればよかったがそうもいかず、外はしとしとといかにも梅雨の雨で体を休めるにはちょうどいいかも。今日は6月8日で明日6月9日がロックの日だそうで、NHKが再放送の「ザ・ビートルズ来日〜熱狂の103時間〜」をやっていた。この放送、初回は10年前の2015年6月だからビートルズ初来日約50年を意識して作られたんだろう。以前も視聴していたにも関わらず、ビートルズ好きゆえにまた見てしまった。

いやー、本で読んで知ってはいたけれど、当時の日本の大人たちのビートルズ拒否感ってのはすごかったんだな。一言で言えば「不良の音楽」「馬鹿騒ぎしているだけ」「日本の価値観を壊すな」といった感じで、良識ある大人だけだなく右翼も街宣車で反対、抗議活動をするほどだった。現代からというより、私がビートルズを聴き始めた1974年頃の感覚からしてもおかしいと思えるほどで、旧来の人たちが得たいの知れない音楽、見た目、パワーに拒否とある種の恐怖心を抱いていたのだろうと思える。彼らが現代にタイムマシンに乗ってやって来たら、ビートルズはいまだに新しいファンを生み続け、その音楽は現代のクラシック音楽になりつつさえあることに驚き、自分が恥ずかしくなるだろう。そして↓の写真のような行為をしたら現代人からは「まるで野蛮人?」って言われるのがオチだろうネ。
そんな中、本国イギリスでもアメリカでも日本でもビートルズの本質的な素晴らしさをいち早く感じ取ったのが若い女性、少女たちだったのだ。画面を通してそれらががんがん伝わって来た。後に学校の教科書に載るほどの名曲を作っていたとか、20世紀を代表する音楽グループだなんて理屈で理解しているわけではなかった。そのことに「すごさ」を感じた。若い女性に人気のものって今でもよくTVのバラエティー番組などでよく取り上げられるが、「ミーちゃんハーちゃんがまた面白がって」なんて舐めちゃいけない。その中には古い大人たちや男性の視線ではよく理解出来きなくても実は本質的な素晴らしさ秘めているものがある。それらを彼女らは直感的に分かる能力を持っているんだ。
女性の本質を見極める能力を侮ってはいけない。

2025年6月7日土曜日

倦怠感でもやらねば・・

この前、カールが風邪を引いていて、それが私にうつったか昨日くらいからで、倦怠感や鼻水、咳などが出ていた。それが今日土曜日も午前は倦怠感がピークで居間のMOGUソファを背もたれにし、ぐたぁ〜と 寝入ってしまった。一応、ドジャース対カージナルスのゲームをTVで見ながらではあったが、ドジャースがてんでダメでカージナルスにやられてあんまし見る気がしない展開で、それで何度も寝ては起きてを繰り返した。午前中にこてる日記を書いて午後からのリアル麻雀に備えて天鳳で腕ならしをしておこうという腹づもりだったのだが・・結局、家を出る13時半までずっと居間での寝込みを続けていた。

いやはや、こんな体調で麻雀を打つのもちょっとつらいな、誰か代わって打ってくれる人がいるならそうしてもよいがなどと、雀好きな私が珍しく弱気にもなってた。

そうやって始まったリアル闘牌であったが・・あに図らんやとはこのことで、出だしからなぜか好調、トップ、2位、2位、トップ、トップと一人勝ち状態になっていた。後半は落ち着いたが、ラスも1回だけで大勝ちではなかったけれどプラスだったのは私だけ。一人勝ちだったのは間違いない。体がきついんで無理に勝負には行かず冷静に打つことが出来たからかな。

でも帰宅してからがやはり大変。すぐにシャワーを浴びてこてる日記を書き始めた。ここで書いておかないとそのままダウンは必定で、翌朝「こてる日記」を開いた人が「あれ?アップされていない」となるのだけは避けたい。どうにか6月5日分の日記を書き終え、そのまま床のMOGUソファでの寝込みをきめた。ドジャース戦が午前3時過ぎからだって言うからねぇ。まったくこの時期はメジャーリーグ観戦で生活のパターンが影響を受けるわい。しかし、これも案の定というか寝入ってしまって覚醒したのは午前5時。あちゃー。で、途中経過を見ないようにして冒頭から録画を見始めた。風邪で寝転んでじーっとしておくだけの休日にまたなりそうだ・・。

2025年6月6日金曜日

当直の指導はしたけど当直は

昨日から夕方からの当直を新しく非常勤のトマリンDrにしてもらうことになった。青雲会病院で働くのは全く初めてで今月から毎週木曜の夜を担当してもらうことになる。となると、病院のシステムや電子カルテの使い方などオリエンテーションをしなくてはならない。そういうわけで私自ら説明を行った。教えるだけでなく、実際に仮カルテに入力してもらったりするなどさせた。特に電子カルテは各病院でそれそれ違いがあるからやってもらわないと見たり聞いたりしただけでは覚えられないしね。

結局、一通り終えるまで1時間以上かかった。それでも一人ではきっと惑うはず。幸い昨夜の当直看護師はベテランのカッコちゃんNsだったからどうにかやり過ごせたはず。当直記録を見ると、夜の21時過ぎに発熱の救急患者が来て診察、検査後に入院させていた。昨夜診察したのはその患者一人だけだった。うむ、最初の当直にしてはあきれるほど忙しいこともなくあるいは全く患者ゼロでもなくいい感じの夜だったようだ。

15年くらい前の青雲会病院は院外Drの当直日は週に1回かせいぜい2回あるかないかくらいでほぼ週5日を院内のDrらで交代して担当していた。だから私も月に5回くらいの当直は当たり前にあったのだ。その後大学病院外科教室から定期的に週1回、土日は月2回派遣してもらえるようになり、木曜も院外Dr、そしてここ最近は火曜、日曜を外科、脳外科の院内Drが決まってするようになり、私の出番もかなり減って月1、2回になっていた。そして今度の6月7月の日当直予定表では私は1日(半日も含めて)も日当直が入らなかった。いやー、青雲会病院に来てこんなことは初めてだ。別に院長になったからというわけではなく、他の常勤Drも回数はかなり減っていて、今回だけたまたまなんだが、8月以降も当直はあっても月1日くらいだろう。

これまで忙しかった当直の話題などよく「こてる日記」ではネタにしてきたが、ここしばらくはそれもなくなりそう。当直の指導はしたけど当直はしないってこと。まあ前期高齢者の仲間入りしているんでそのあたりはちょっとは楽させてもらいまひょか( ・_・;)。

2025年6月5日木曜日

7月5日に大地震が起こるだって

少し前から妙な噂が日本及び近隣諸国で広がっている。今日のYahooニュースでも出ていた。

それは日本の漫画家で霊媒師のたつき諒という人が「今年の7月5日に日本で大地震が起きる」というものだ。たつき諒は2021年に発表したベストセラー漫画『私が見た未来』のなかで、2025年7月5日に日本で重大な災害が発生すると予言した。災害の詳細は不明だが、この予言は1999年の漫画でも予告されたもので、2011年の日本の大震災と津波を予見していたと言われている(当時の表紙に『大災害は2011年3月』と書かれていた)。これを信じた一部の人々は、ソーシャルメディアで日本への旅行を避けるよう警告する投稿を拡散し、旅行を予定していた多くの人々が予約をキャンセルまたは延期する事態に至っているという。ブロンズウィック調査によると、香港や台湾、韓国からの日本行きの予約が大幅に減少し、とくに6月下旬から7月初めの期間においては、予約数が前年の50%減、または最大83%減となっている。さらに、春休みの旅行も影響を受け、日本旅行の予約は2024年の半分にまで減少した。
このたつき諒という人は予知夢を見ることが出来て、自身の予知夢を題材にしたというこの漫画には「2025年7月5日に大地震が発生し、東日本巨大地震(2011年3月)のときより3倍高い津波が日本の南西部に押し寄せる」といった内容が描かれている。この作品には「2011年3月に大災害が起こる」という内容も描かれ、これが東日本大地震を正確に予測していたと話題になり、うわさはSNS(交流サイト)で急速に拡散された。それで作者が言いたいのは「大切なのは準備すること。災難の後の生き方を考えて、今から準備・行動しておくことの重要さを改めて認識してほしいのです」ということだそうだ。その忠告は至極まっとうだが、3倍近い津波というのが私にはとても信じられない。いや、そもそも予知、予言などは私は全くといって信じない。

しかし中には信じたり、不安に思う人もいるようだ。防災アドバイザーの高荷智也氏は自信のYouTubeの中でこの予知を解説し「書籍の中でフィリピン海の中央辺りの海底がボコンと破裂(噴火)した」と書かれているが、その場所はこれまでの大きな地震の震源地からは全く外れているところでおよそ考えにくいという指摘をしていた。
まあ、およそまともでない書籍に書かれたことをまともに反論、検証してもしょうがないと私は考える。それはかつてのノストラダムスの大予言で私たちはすでに経験しているではないか。私はこのこてる日記でノストラダムスに限らず予言、予知を語る人への批判的なことを数回書いてきた。そして信じたがる人はまあ一言で言えばダマされやすい性格、それに原著を確認したがらない傾向、そして摩訶不思議なものへの単純な憧れなどがあるように思える。

まあ、私はこの予知がまずデタラメで当たるはずがないだろうから、それが確証出来る意味で今度の7月5日が楽しみではあるな、ふっふ。

(特に2014年にこの手の予言へ批判的な記事を書いている。以下参考。
2014年3月15日「リトルミイの名言・・・ってか」→https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2014/03/blog-post_15.html
2014年9月2日「予言者『松原照子』」→https://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2014/09/blog-post_2.html

2025年6月4日水曜日

「あれはこてる先生の生き霊だぁ」

夕方、内視鏡室のスタッフらが面白いことを言っていた。

「午後の大腸内視鏡検査中にですね、並ぶンDrが『あれ、黄色い検査着のこてる先生がこっちを見ている』って言うんですよ。でも、先生はずっと外来にいましたよねー」「おう、救急や外来で忙しかったし、内視鏡室には今日は1回も行ってないぞー」「ですよねぇー」

で、話は終わりかけたが、並ぶンDrは「いや、あれは絶対にこてる先生だった、間違いない」と言い張ったらしい。と、なるとだよ。その見えたこてる先生って・・・「生き霊?!」そう結論づけたら、内視鏡室スタッフが「うわ〜怖ぃ〜」って、なんだかはしゃいでいるんだ。「生き霊って六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)じゃぁあるまいし」って私はつぶやいたが、それには彼女らの反応は全くなしで、「生き霊ってこてる先生は何か並ぶン先生に恨み辛みでもあるんですかぁ?」などと、すでに生き霊説は当然といった物言いだった。で、内視鏡室スタッフにこれだけ受けたので並ぶンDrが見たという私の生き霊をAIでジブリ風イラスト化してみた↓。ふむ、きっとこんな感じだったろう。いやはや並ぶンDrも面白い日記ネタを提供してくれるわい(⌒о⌒)。

2025年6月3日火曜日

長嶋茂雄を一度だけ見た

長嶋茂雄が亡くなったとネットニュースで知った。ほう・・と思った。私は長嶋の現役時代をTVなどで見知ってはいたが、それは昭和40年代後半の比較的現役晩年時代で熱狂的な長嶋ファンというわけではない。しかしプロ野球、巨人という人気スポーツ、人気球団を牽引した日本人なら誰でも知っているスター選手だったというのは実感している。王貞治がいくらプロ野球記録を更新しても人気という点では長嶋に敵わなかった。そこがよく分からないという点で一世代上とは違っていた。

かつて大学内視鏡室メンバーの飲み会で私より12学年先輩の草野健Drが「TVで野球中継が始まった頃、長嶋がホームスチールで勝ち越す試合を見ていっぺんでファンになった」と語っていたのを思い出す。長嶋は記録よりそのプレーで熱狂させるタイプの選手だったようだ。その私が直に長嶋を見たのが今から30年以上前の日米野球でのメジャーオールスター対巨人の試合だった。1992年10月30日東京ドームでのことだ。たまたま消化器系の学会で東京に行った私は時間も空いていて観戦をすることが出来た。その試合は長嶋が10何年ぶりに2回目の監督復帰をしての最初の試合だった。後で知ったが当時の巨人ナインともその試合が初対面だったそうだ。

当時、私はメジャーリーグの試合をBSで観戦したり、メジャーオタクだった親戚の大学生トヨ丼君としょっちゅう会っていたこともありどちらかというとメジャーチームを応援していた。トヨ丼君のために彼の推しチーム、ピッツバーグパイレーツの帽子をお土産に買ったりし、相当喜ばれたのを覚えている。で、結果はというと、これはもう大人と子どもの試合で、巨人はかつて阪神で活躍したセシル・フィルダー(タイガース)やケン・グリフィー・ジュニア(マリナーズ)に特大ホームランを浴び、打線は同年18勝を挙げたロジャー・クレメンス(レッドソックス)に完璧に抑え込まれ、ヒットはベテラン篠塚の一本のみ、見せ場は失敗したがヒットエンドランのサインを長嶋監督が出した時くらいだった。なんと11対0という内容だったのだ。日本のマスコミは長嶋監督の再登場という面を強調しメジャーリーガーたちのプレイにさほど注目した記事は少なかったように覚えている。球場のファンも長嶋がユニフォームの背番号33を見せたシーンにどっと歓声を上げていたしね。
その日から約3週間後のドラフトで長嶋は松井秀喜を引き当てるのだ。もう30年以上も前のことだ。時代は変わって、今もしメジャーリーグのスター選手チームが来たら、当日チケットで簡単に入場出来るはずもなく、空席が目立っていた観客席は隙間も無いくらいの満席になっていたはずだ。大谷翔平という長嶋と王の両方を併せ持つ世界のスーパースターが日本から誕生したのも長嶋、王、松井、イチロー、野茂などスーパースターらの築いた土台があったからだろう。亡くなってなお長嶋茂雄の存在の大きさに気づかされるな。

2025年6月2日月曜日

ネコが2匹いると・・

YouTubeで時々眺める動画にネコ動画がある。ネコたちの俊敏な中にも面白い動きがあって楽しい。↓なんか「このエサ、ボクのもんだも〜ん。上げないよっ!」ってそのもの。

ネコはネコなんだが時に人間くさい動作をすることもあってかなり笑ってしまった。↓なんかまさにそうで、ちょっかいだそうとしてまさに手を出す瞬間、「なに?」と睨まれて、「いや、ボク・・アタマかいているだけなでしゅ〜」ってね(笑)。
そこで家のネコ2匹。ちょっかいを出すのは決まってハナビでしかも真っ正面からはなくそのほとんどが背後からだ。ゲンちゃんが油断しているとき、何かに気を取られているときに決まって狙ってくる。
ゲンちゃんに「何だ?!」って睨まれてそこでおしまい。この後本格的なケンカになることはないのであった。

2025年6月1日日曜日

採れたはいいけれど・・

何の予定もない日曜日、朝はドジャース対ヤンキース戦をTV観戦した。ドジャース打線が爆発し、あまりの大差に後半はもう見る気が失せた。 ていうか明け方から起きていたので寝入ってしまったのだ。

今日は庭の枇杷の木から実を全部採りきろうと思っていた。あまりの数の多さにまとまった時間が必要で、朝か夕方に脚立を使って採りまくろうと。まだお日さまが高い昼過ぎはMOGUソファでまったりと休んでいたら、ゲンちゃんもやって来て私の胸の上に乗っかってまどろんでいた。たま〜にハナビも乗っかるがやはりゲンちゃんは長年の付き合い、互いに安心感がある。

上の写真から約1時間経過してそろそろ日も暮れようかという頃、ようやく枇杷採りに向かった。左腕にレジ袋を持ち、右手でどんどん枇杷の実をもぎってゆく。とにかく今年は実が小さいのが残念。ただうちの枇杷はちゃんと熟したものは甘くて美味しい。時たま落下した枇杷を口に含むとじわ〜と甘みが広がる。
1時間、2時間経ってどうにかほぼ全部の枇杷を採りきることが出来た。レジ袋が4袋以上になった。カールが↑や↓の写真を千葉のマーヤさんに送ると「わあ、欲しい」ってことだったので箱詰めして明日宅急便で送ることにし、チッチにも聞くと「欲しい」とのことでいっしょに送ろう。テルはというと、実は先週採った時に先に送っていた。
それでもまだ相当余っているので明日リハビリと内視鏡室に持っていこう。それでもまだ200個以上余っている。結局、カールが「頑張ってまたジャムにするわ」と少し力なくつぶやいた。ジャム作りは皮を剥いて種を取り、中の薄皮も剥かねばならない。200個ともなれば何時間もかかるんだ。「テル君も手伝ってよ〜」とのカールに「むろ〜ん手伝いますよ、ハイ」と私も苦笑いしながら答えたのだった。