2022年4月29日金曜日

新日本風土記・天草

昭和の日の朝、ゆったりとした気分でNHKBSを眺めていた。「ちむどんどん」「こころ旅」と来て「新日本風土記」をやっていた。これは再放送で「天草・歌と祈りと世界遺産の旅」が特集で途中は見ておらず、後半になって牛深のハイヤ祭りを踊る女子高校生や島原・天草の乱の遺跡や天草四郎の話題、隠れキリシタンの集落(崎津集落)など出てきて、8年前の今頃天草を二人の母親とドライブしたことを思い出したりしていた。→http://koteru-nikki-2015.blogspot.com/2019/08/blog-post_22.html

興味深いエピソードだったのが、天草には「鈴木神社」なる神社とそれに関連する祠(ほこら)が34ヶ所も全島に散在しており、まつられているのは「鈴木様」で、れっきとした人間ということである。へー、それは知らなかった。一体誰?鈴木様は3人おり、天草・島原の乱には鉄砲隊長として参戦した三河藩の武士鈴木重成と僧侶の兄鈴木正三、重成の養子鈴木重辰(正三の実子)である。島民には乱を鎮圧した側なのに天草四郎よりその遺徳は偲ばれているらしい。

幕府の命により代官として赴任した重成は天草の島民を苦しめているのは年貢の負担が重いことで、石高4万2千石は本当はその半分2万1千石しかないからだと散々幕府に訴え続ける。そもそも島原・天草の乱はキリシタン迫害よりも苛酷な年貢搾取に喘ぐ農民の不満の方が大きかったのだ。しかし面子を重んじる幕府はなかなか認めようとせず、ついには重成は真情を綴った建白書を残し、江戸の自邸において切腹して果てたそうだ。幕府は普通なら鈴木家にお家断絶などの処置が取られるべきところ、逆に重辰を赴任させた。すでに天草の人たちは鈴木代官に心服し他では務まらないとの配慮からだったようである。重辰も石高半減を訴え続け、重成の七回忌についに幕府はそれを認めたのだった。

島原・天草の乱は住民3万7千人もの犠牲者を出し、天草では2万人から8千人に人口激減したため、幕府は荒廃した天草に九州四国の農漁民などに移住を進めた。その末裔は今でも住み続け、その中で佐伊津地区では伝統のサトウキビ作りを続けているのが紹介されていた。面白いと思ったのが、江戸時代末期に今の薩摩川内市から苗を導入し全島に広まったのだという。昭和半ばまでは全国屈指の生産量だったという。薩摩川内からというのに私はピクッとなった。薩摩川内の開業医しんどかどDrを思い出したのだ。以前日記ネタにもしたが、彼は現在月2、3回は週末天草に出向きクルーザーで「漁」をしている。なんかお互い様って感じ。番組では佐藤さんというさとうきび組合の人が紹介されていて「天草の佐藤(甘草の砂糖)さんか。ふふ・・」と一人ニヤついたのだった。ただ現在天草でサトウキビを作っているのは佐伊津地区だけだ。なぜそんなに廃れたのかというと昭和40年代に天草五橋が完成したからである。人や物など流通が良くなったのが皮肉な結果になった。

牛深ハイヤ節も面白い。高校に郷土芸能部があり、そこの女子生徒が出てきて上手に踊っていた。牛深は熊本一の漁獲量を誇る港町でそこで生まれた「牛深ハイヤ節」は北前船や大阪の商船とともに旅をして、「佐渡おけさ」や「阿波踊り」のルーツとなったという。ハイヤとは、船を運ぶ「南風(ハエ)」が転じた言葉で、ふと鹿児島の「ハンヤ節」もここがルーツかと思った。実際そう指摘もされているようで、ハイヤ節は日本の踊りの原点とさえ言えるナ。
NHKの比較的地味目な番組だけれど「新日本風土記」、こいつは侮れない。

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