その予想はばっちり。
翌朝までに4台の救急車がやって来た。なかでも夕方に高齢者施設から心肺停止で運ばれた超高齢女性への対応は大変で、息子さんも「何としてでも助けて」とのことで救急隊員、当番看護師二人らとすぐに心肺蘇生を施し、気管挿管、人工呼吸のあと3回目の強心剤で心拍再開でき、どうにか入院させることが出来た。
息子さんは関東に住んでいたが、5年前に帰鹿し面倒を看てきたほどの大変な母親思いの人だった。しかし翌未明に危篤状態になった。駆けつけて来て「お母さん、温泉に行こうと言っていたでしょ」「神社にも行きたいって言っていたでしょ」「お父さんがこっち来るのはまだ早いって言っているよ」そう呼びかけ続けるのだった。私は病室から出てナースステーションでモニターを監視しつつ待機した。約40分、絶え間なく母に呼びかける声は続いていた。
いよいよ心拍がフラットになり、病室に入っても息子さんの掛け声は止むことはなかった。冷たくなった手をさすり「お母さん頑張って」と呼びかけていた。私は5分ほど待って「残念ですけど・・」と話しかけるがまだ諦め切れていない。さらに5分ほど経ってようやく死亡宣告することが出来た。息子さんがっくりとし「来年は100歳だったのに・・」と呟くのだった。
ナースステーションで死亡診断書を書いている時、廊下から息子さんに声を掛けられた。「先生、ありがとうございます」その口調が先ほどまでとは違っていて、あ、普通に戻ったなと思った。病棟から引き上げる時、息子さんは葬儀の準備らしきことを電話したりしてよく見かける遺族の様子になっていた。あの看取りの約1時間は愛母との別れに必要なひとときだったのだろう。
朝までゆっくり休みたい・・と思って床についたが、約1時間半後には脳梗塞かもしれないという遠方からの救急要請のために起こされたのだった。
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