火野正平の「こころ旅」放送は2週間前が鹿児島だった。今週その録画(4/10放送分)を見た。なんと出だしは勤務先の姶良市じゃない。「あいらしぃ〜」と正平さんがギャグを飛ばした場所は何か見覚えがある池で、もしやと思ったらやはり住吉池だった。ここは訪問診療をやっているころ、ちょいと寄り道して一度だけ来たことがある。で、その桜満開の住吉池に老夫婦と孫二人がピクニックに来ていて、当然、正平さんを見つけて近寄って来た。「あー、こんにちわ、いつもTVで見ています」とじいさんが言って、ばあさんが「これ食べてよ、今焼いてきたの」とホットケーキを食べさせようとした。
あれ?このおばはん、元青雲会病院の職員じゃないの。10年以上前に病院の老健で働いていた人だ。「腹一杯やねん」と嫌がる正平さんに強引に食べさせ、さらに孫たちもいっしょに写真に収まろうとした。なかなかのやり手ばばあだ。確か青雲時代もそうだったような。何か孫たちはありがた迷惑そうで孫娘の方はいやそうな、孫息子はくしゃみもしていたわ。
そして出発する正平に背後から手を振り大きな声で「頑張ってくださーーい!」「バイバイー」「気をつけてぇー」と何度も声を張り上げ正平を面食らわせていた。
姶良の町を下って休憩していると、走っているところを軽自動車で追いかけて来たママさんが「写真撮らせて下さい」と娘といっしょに寄って来た。で、「今日は看護師国家試験の合格発表の日なんです」と話しかけると「オレと写真撮ると縁起悪いやど」とジャブをカマした。「これから見に行くのか」「いや、インターネットで午後2時から発表なんです」「今、もうそんな時代か」「はい」「立派な看護師になるんだぞ」「はい、なります」というふれ合いがあった。
このママさんどっかで見たような気がするが気のせいか。このあと「オレと写真撮っちゃったら通るもんも通らないんだよ」とつぶやきスタッフを笑わせるが、後日ネットで確かめると後日合格したとスタッフに連絡が入ったそうだ。となるとこの撮影日は3月26日だと分かる。というのも、青雲会病院にもこの日午後「XXさん合格してましたよ」と某師長が伝える瞬間があってそれを私は病棟で目の当たりにしたからだ。
この後、自転車一行はインド料理店に寄り焼き上がりのナムをあちっと言いつつ食べ、目的地である重富海岸の「思川(おもいがわ)の河口」へ向かっていった。すると・・正平さんが手を左に上げ左折しようとしたところは「おっと、そっち(左)じゃない。右に曲がれば50m先は青雲会病院だよ」と私は声を出した。(↓青いトラック方面が青雲会病院へ行く道)
そう、思川沿いのまさに青雲会病院へ行く十字路だった。だが、間違うはずもなく正平一行は重富海岸へ向かっていった。残念(笑)。
目的地の「思川河口」を投稿したのは都城に住んでいる大薗慎也さん58才。私と同い年だ。内容を聞けば全く私とリンクするところがあって、それは大阪で開かれた日本万博に行けるかもというわくわくした子供心で、私はちょうど春休みのその頃家族そろって大阪に行き万博や奈良など観光したのだった。ところが大薗さんは重富海岸の思川河口へ潮干狩りに連れて行ってもらったのはうれしかったものの、大酒飲みで遊び人だった父は万博へ友人らと行ってしまい連れていってもらえなかったそうだ。
そう思えば父デンコーは大薗父さんよりはずっとマシで自分だけいい思いをするというところがなかった。例えば私が大学時代は車は卒業するまでずっと同じものだったが、それまで2、3年ごとに新車に乗り替えていた父は6年買い替えなかった。後で聞いたところ「息子たちがずっと同じなのに自分だけ買い替える訳にはいかない」ということだった。私たちはそんなこと気にもしていなかったがそんな気遣いをしていたのかと感心したものだ。
この「こころ旅」、同じ風景をリクエストしても採用されるかどうかはこうしたエピソード(ほろ苦さ、哀しさ、楽しさなどなど)があるかどうかによるようだ。数日後に正平一行が甑島を訪問した時にすれ違ったおじさんが「私も(目的地の)長目の浜を手紙に書いたんだが(採用されなかった)」とぼやいていた。大薗さんのは、だらしないけれど年に1回くらい家族サービスをする気まぐれな父への思いが詰まった手紙故に採用されたわけだ。まさに思川河口だった。(↓思川河口で陸橋を渡る列車と遠くに以前日記ネタにした片子山が見える)
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