2023年6月25日日曜日

絶海の孤島に漂着してしまったら

何も予定のない日曜日、録りだめたNHKのドキュメンタリーを続けて見た。ダークサイドミステリー「謎の無人島 鳥島サバイバル〜人の生命を試す島〜」及び「あなたの隣の連続殺人鬼〜ジェフリー・ダーマー 孤独の幻想〜」「ダーウィンが来た!「怪魚オオカミウオ 巨大な口で砕く!守る!」の3本だ。

特に「鳥島」は面白かった。鳥島は東京湾から南に580キロの場所にある無人島で、伊豆諸島のほぼ南の端に位置し、一番近い無人島の須美寿島かららも約100km離れている絶海の孤島だ。
幾度も火山爆発の歴史があり草木は生えずおよそ生きていくには不向きの島だ。そこに1739年5月6日、関東近海で遭難した輸送船「宮本善八船」が、4ヶ月の漂流の末に流れ着いた。乗組員のうちち3人が島に上陸して水や食料を探したが、一面岩場で川も湖も無い。ところが石垣が積み上げられているなど何故か人の気配が漂っていた。やがて三人が洞窟を見つけ踏み込んでみると、鳥の毛皮をまとった三人の男が現れ、「自分たちは遠州新居(えんしゅう・あらい)の者で、遭難して19年間この島で生き延びてきた」と語ったのだ。鳥島は何故か漂流者が多数流れ着く場所で、江戸時代に記録が残っているだけで15件・122人もいる。もっとも滞在期間が長かったのはこの遠州新居のものたちの19年で、漂流者の中には江戸末期にあのジョン万次郎もいた。↓はこの番組のネタ本。

この遠州の3人は19年前の遭難時は12人いたそうだ。船にもともとあった火打石、鍋、釜、斧、桶などを利用し食料はアホウドリを捕まえ、鍋釜で焼いたり煮たりして食べ、水は岩場にたまった真水を見つけてすすったものの、一日に貝殻一杯分しか飲めないような日々で、逆に雨が降ると2、3日続くため、雨水を桶にためたりしたという。島には壊れた船の破片(船の帆、材木、船釘、等)がよく流れ着いたため、それを元に道具を作った。材木は削って桶にして雨水を保存。細い材木は削って棒にして、帆から糸を引き抜き、船釘を加工して針にして釣竿を作って魚を釣る。また帆からとった糸を、アホウドリからとった油に浸すと、火を絶やさないための灯火とした。加工時に出た木くずも燃料として使用するなど、人間は何もないところから工夫して生き抜こうとするものなんだ。

しかしやがて一人が体が腫れて死んだ、おそらくはビタミン不足による脚気だろう。これの対策は島に漂着した米俵の米「赤米」から芽が出てるのを発見しており、赤米とは水が少ない陸地でも育つ陸稲の一種で、ぬかはビタミンB1が豊富だ。彼らは、岩と岩のすき間にわずかにある土の上に種籾をまき、肥料として魚の頭や骨を与えた。そして赤米は見事に育ち、1年に20升(約30Kg)収穫できたという。それでも最初の数年で病気や老衰で3人が死亡、その後長い間にだんだん心を病む者が現れ、3人が自ら命を経ち、漂流10年目には生き残りは6人になっていた。その翌年、みんなをまとめていたリーダー役の佐太夫も病気で死に、残りは5人にまで減った。漂着から15年が過ぎると、生き残りは30代の平三郎、50代の仁三郎、60代の甚八、の3人だけとなっていた。人間関係も悪化し、平三郎は一人で衣類や火を独占したりした。そうして漂着から19年、新たな漂着者たちにこの3人は発見されるのだった。

しかし異様の者たちを見て、そんな事情をすぐに信じてくれと言う方が無理というものだ。実際、3人は髪も切らず髭も剃っておらず、常に日に当たっていたことから肌も赤黒く、さらに鳥の皮を着ており、とても人には見えない風貌だったそうだ。そんな時のためにリーダーだった佐太夫は身分を証明するための下田奉行の運送業者の手形を一番若い平三郎に託していたのだった。そこでようやく相手に信用され、この二組は新たに漂着した小船を修理し約1ヶ月後に鳥島を脱出し3日後に八丈島にたどり着く。そこから幕府の船で江戸に生還した。その後、彼らは役人だけでなく八代将軍徳川吉宗にも謁見し、彼らの19年間の生活は細かく記録に残された。その後、生き残った3人は故郷に戻り余生を過ごしたという。

いや〜、素晴らしい番組だった。極限の中でいかに生き残るか、人間のたくましさ、助け合い、しかし時に垣間見える弱さなど子どもたちにも見せたい内容だった。番組では後日談として、14年後のエピソードも紹介されていた。1753年、また鳥島に新たに大阪の船乗りたちが漂着した。彼らは平三郎たちと同じ洞窟を発見し中に入ると、木の板二枚、火打石・釜・包丁などの道具を発見する。木の板には平三郎たちが書いた島で生きるすべが記されており、道具はアホウドリの油で保護されていた。後にまた来るであろう遭難者たちに自分たちの知恵を残して置いたのだった。

その後鳥島には9艘・75人が漂着したが、そのうち62人が本土に生還したという。中には1789年の鹿児島の志布志の住吉丸(三右衛門ら6名)の例もある。彼らが漂着すると、驚くことに土佐国の松屋儀七船の乗組員・長平と肥前国金左衛門船の船頭・儀三郎ら11名が生活していたのだ。三右衛門ら6名が加わり、鳥島の居住者は18名となり、三右衛門らは6年の歳月をかけて船を造り、1797年6月13日、八丈島の南方にある青ヶ島にたどりつき、生還を果たす。↓の写真は鳥島の全図で住吉丸の乗組員から審問した薩摩藩藩医で本草学者の曽槃そうはんが書いたものだ。彼は過去の鳥島漂着記録も参考に、「怪鳥」(アホウドリのこと)や洞穴の場所など詳細に記している。
1841年に土佐の万次郎の乗った漁船は鳥島に流れ着き、5ヶ月後異国船に拾われることになる。この船がアメリカ船ジョン・ホーランド号で万次郎の運命が変わるきっかけになったのだった。その人生はこの鳥島よりも面白いが、有名だし別の機会に話題にすることもあろう。

鳥島は明治になって開拓者が入植したが後に火山爆発で島民125人全員が死亡し、現在は国の天然保護区域となり、人の立ち入りは厳しく制限されている。現代でも絶海の孤島であり続けているのだった。

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