午後、外来初診患者に60歳の女性がいた。消化器系でこてる先生診察希望とある。青雲会病院は全く初めてなのに私を指名するとはいったい何だろう、と問診表も見たが、詳しいことは分からない。ただ、住所が鹿児島市内でかつて私が通っていた小学校の近くだった。「へーえ」と思い診察前に住所からどの辺りかネットで調べてみた。すると、私の知っているマンションだと分かった。私が大学1年の時(昭和53年)、そこの住民の中学生を短期間だけ家庭教師をしたことがあった。
そこで診察を一通り終えてから「お住まいは〇〇マンションなんですね。私、そこに行ったことありますよ」と話した。そしてそこに住んでいた中学生の「オマセさん」の名前を出した。すると「えー、オマセさんの両親とはたまにすれ違いますよ。同じ階ですから」と言うではないか。聞けば昭和49年にそこのマンションに入ってからずっと住み続けているという。オマセさんはマッサージ師でうちにもよく出入りしていた。息子は野球をやっていて鹿児島玉龍を目指していた。しかし私の教えが悪かったのか、そっちは叶わず、鹿児島実業に入った。でもその方が返って良かったのだ。
当時の鹿児島高校野球界では、すでに玉龍は落ち目で、鹿商も昭和50年を最後に甲子園には出ておらず、鹿実と鹿商工の時代になりつつあった。オマセ少年は鹿実の野球部に入りどうにかレギュラー組に入っていた。で、3年生の時(昭和56年)に夏の甲子園に出場出来たのだ。ただその頃の鹿実は甲子園には出場出来ても1回戦ボーイだった。勝ち上がったのは昭和49年の定岡投手の時のベスト4くらい。で、その時の1回戦の相手は仙台育英。今だったら「あいたー」となるところだが、当時は「これは勝てるかも」だった(昭和50年代から平成2年まで鹿実が初戦で勝てたのは東北の学校のみ)。オマセ少年、試合にも出場し、3ー2で久しぶりの勝利も味わった。ただ1本もヒットを打てずに終わり、2回戦は外されて試合には出られなかった。結果も熊本の鎮西に負けてしまった。父親のオマセさんはチームに同行し練習や試合が終わった選手らのマッサージを買ってでた。久保監督は喜んで「いやー、オマセさん来年も頼みますよ〜」と言っていたそうだが、そんなん息子がいるから試合に出してもらいたいからやっているに決まってるだけじゃん。翌年は甲子園には出られなかったしー。オマセ少年は高卒後、大阪の造幣局に就職した。野球での実績もあったと思われる。その後彼がどういう人生を送ったかは知らない。ただ「父さんは甲子園に出たことがあるんだぞ」と大阪に住む息子か娘には自慢出来ていただろうことは容易に想像出来る。野球少年にとって甲子園出場はプロになるより大きな夢かもしれない。プロになれるのが毎年100名ちょっとで甲子園に行けるのは春夏合わせて1000名以上だからグッと現実的だ。それでも何万もの野球少年にとっては憧れでかつ叶わない夢と言っていい。
そんなオマセさんとの思い出を新患女性に語ったのだ。女性は今は姶良に住む父親に「お腹の具合が悪いのに一度も大腸内視鏡を受けていないとはとんでもない。青雲会病院にこてる先生という良い先生がいるから行きなさい」と言われたのだそうだ。そして私が検査を担当する日に予約して帰っていった。ふむ、これも縁というものだろう。もしかしたら45年前にマンションの廊下ですれ違っていたかもしれないしー。
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