ヒラーキ弟から連絡があって、義母のチエコンさんの母が95歳で亡くなったという。新聞の死亡広告にも出ていた。通夜が鹿児島市内で17時から執り行われるという。これを知って、カールとも「あこネーサ母も同い年で弱っているから近いね」などと話をしつつ、午後は仕事をどうにか早めて行かねばと少し気合いが入った。
昼休みはほとんど休まず、午後からの大腸内視鏡4件を2時間ほどで済ませ、16時過ぎには病院を早退し、いったん自宅で喪服に着替え、カールと通夜会場へ向かった。チエコンハハさんは、いつも丁寧で「チエコンの母でございます」というのが口癖の優しいおばさんだった。カールは行きの車中、3人目のチッチの誕生祝いの時にチエコンハハさんに「(男子3人とは)お見事でございます」と言われたことを懐かしくも面白く語っていた。
会場に着くとすでに通夜の読経は始まっていた。参列者は20数名とそれほど多くはなかった。棺の中を覗くとチエコンハハさんはまるで眠っているよう。聞けばほっぺを少し膨らませるなど「おくりびと」の業を駆使されたそうだ。読経が終わり、ヒラーキやチエコンさんに会食をどうぞと勧められ席についた。チエコンハハさんは娘が二人、妹のチエコンさんがヒラーキの嫁だ。姉のキリコンさんの夫オメド行くさんは鹿児島市役所に長らく務め、私の同窓生のホワイトストン君もよく知っていた。可笑しいのはオメド行くさんも「私は彼をホワイトストンと呼んでおりました」だって。彼の次女の婿のハードマウントさんが鹿児島在住で孫2人と来ていて私は初めて会った。聞けば新日本科学から最近鹿銀に転職したばかりだそうだ。
会場には生前のチエコンハハさんの写真を中心にパネル展示されており、若い頃は比較的ふっくらだったんだとか、ある白黒写真はチエコンさんにそっくりだったりしてなかなか興味深かった。
会食が進むにつれ、カールはビールを、オメド行くさんはビールだけでなく日本酒も飲み、またヒラーキの子どもらはお酒が強く、なんと「利き酒をしよう」となり、カールも含めてアサヒ・スーパードライとサッポロ黒ラベルの当てっこが始まった。私は運転をしていることもありノンアルしか飲めず参加出来なかった。ずっと以前、この日記で「赤ワインか白ワインか」の利き酒ゲームをしたことがあり、そこで失敗した私は「バカ舌認定」されてしまったのでリベンジしたかったなぁ。でも、へへ、カールは失敗したのよ。ヒラーキの長女アサちゃんやその旦那のビッグストンさん、オメド行くさん(下の写真)らは間違わなかったのにさー。
この時点ではすでに21時過ぎだった。夕食もこの会食で済ませることになったわけで、そろそろ帰る頃かとも思ったが、まだ話題が尽きずに盛り上がりをみせた。特に私や弟の父デンコーや田舎での昔話がメインになっていた。カールが「テルくんの生まれる前から田舎、鹿児島へ引っ越すまでのエピソードはなんか小説にでも出来そうじゃない」なんて言うと、オメド行くさんがさらに話を盛り上げてくれたりもしたからなぁ。思えばたまにキリコンさん家の人たちとは会って挨拶はするがここまで話を続けたことはなかった。子ども3人それぞれ活躍しているそうで何よりだ。そして時は23時過ぎにもなっていてさすがに今日はお開きにとなった。最後はチエコンハハさんの棺にまで行きまた手を合わせた。チエコンさんとカールの嫁二人は帰り際にまた話をしていたので、私はトイレに寄ってから帰ろうとしていたら、カールはハンカチで涙を抑えていたわ。でも、帰りの車中「縁戚の人たちと長時間話をして盛り上がってこんな通夜は最近なかった。楽しかったわ」とカールは語った。確かにそうだ。まあそれが本来の通夜の意味合いだろう。そして「これもチエコンハハさんの人徳ね。年末だけれどみんなが集まりやすい日に亡くなって、通夜ではみんなをよく語らせ楽しませ『本当にお見事でした』と同じ言葉を返したいくらい」と。
帰宅してすぐにシャワーを浴び、パソコンに向かったが、私は昼からの疲労もあり「こてる日記」をとても書ける状態になく、久しぶりにアップロードを落とさざるを得なかった。でもほんと良い通夜だったのでたまにそんなことがあってもいいじゃない。ねえ。
0 件のコメント:
コメントを投稿