2015年7月21日火曜日

高校野球100年わがふるさとのベストゲーム

今年は高校野球が始まって100年という節目とのことでNHKBSで「高校野球100年のものがたりわがふるさとのベストゲーム」という15分特集番組が47都道府県ごとに放送されている。各都道府県代表校の名勝負をふるさとの人々の思い出とともにつづる高校野球好きにはたまらない企画だ。2ゲームが紹介されるが名勝負の多い県などはセレクトするのに苦労しそう。初放送は7月10日で青森県から岩手、宮城、栃木、群馬、埼玉、京都、奈良、和歌山が紹介された。その後何県もあってやっと今日鹿児島だった。2ゲームに選ばれるのはどの試合か?例えば青森でいえば、昭和44年夏・三沢高校の決勝戦と平成24年夏・ベスト8入りを果たした光星学院の試合が、栃木は昭和48年夏の2回戦の作新学院対銚子商業、昭和61年春初出場で準優勝した宇都宮南高校の準決勝対新湊高校(富山)が選ばれた。三沢、作新の試合は有名で誰もが納得の選だ。鹿児島は鹿児島実業の平成8年春優勝が初にして唯一の優勝だから選ばれるのも仕方ないか、でも私は何といっても昭和49年夏の準々鹿児島実業対東海大相模が一番なんだがと思っていたら、うれしいことにこれがまず選ばれていた。さすが!あとは平成6年夏樟南の対佐賀商準優勝だった。

高校野球全体での名勝負は他にもいっぱいあるが個人的にはやはり私が中学3年の時の鹿実対東海大相模戦なんだ。それまで1回戦ボーイの鹿児島代表が大活躍し準決勝に初めて進んだという驚きと感動で私以外の多くの鹿児島県民も名勝負に上げると思う。

試合は定岡の好投で準々決勝に進み原辰徳のいる東海大相模と対戦した。夕方から私は家族といっしょにTV前にかじりついて見ていた。序盤いきなり2点を取られ「ああやっぱり」と嘆息したのもつかの間3点を取り返しそのままずーっと9回裏までいきすでに2アウト「おいおい、こりゃすごい。勝ってしまうかも」と期待した。しかしそこから打たれ相模に同点にされ延長に入った。実は相模はこの大会初戦でも優勝候補の土浦日大戦で9回2アウトから2点差を追いつき延長でサヨナラ勝ちしていた。(この試合天文館の街頭TVで私は見ていた)やっぱり強豪校は違うな、善戦しても結局は負けてしまうのか・・。すでに日は暮れナイターとなっていた。TV中継は終わるはずがNHK教育で見せてくれ他県では7時のニュース以降はラジオ放送のみだったらしい。抗議がNHKには相次ぎ、後これ以降試合を教育に回してでも放送するシステムになった歴史的な試合でもあった。

回は進み延長14回、何と鹿実が1点勝ち越した、おおっ。だがだ。相模がその裏同点にしたのにはあきれた。ここまで粘り強いのかよ。しかし鹿実もその前危ない場面があった。12回裏2アウトランナー2塁でヒットが出ればサヨナラの場面、打球はセカンド後方ライトセンター間に飛んだ。ああ、ダメか!と思ったらセカンド中村孝が飛びつきダイビングキャッチ!ボールはグローブに収まりサヨナラ負けを免れた。これは鳥肌もんだった。後に球史に残るファインプレーといえるのも次15回に鹿実が勝ち越したからだ。結局負けたら同じプレーでも「残らない」。ただし15回は定岡はボーンヘッドをする。一旦6ー4になったと思ったのに定岡の3塁タッチアップが早かったと相模のアピールによって得点が取り消されたからだ。見ていた私たちは「定岡、あほバカ」と言っていた。今では誰もこのことには触れない。5ー4でその裏を押さえ勝ったからで点差もこの方がいかにも接戦でしたと見栄えがいい。

翌日の南日本新聞には「勝った勝った勝った」との見出しで県民の熱狂する様子が出ていて、中でも鹿実会議室で応援部隊の様子が面白く書かれていた。「(延長戦で点が入るたび)マージャンでいえばスーアンコウをツモ待ちする気分だ」とか「森元お前はここで打たんとこんどの試験では赤点にすっど」、ある老教師は「心臓に悪い、もうドッドッする」、勝利が決まるとラグビー部教諭などは「はよ。しょうちゅうを持って来い。乾杯だ。さし身を買って来い」と、両手あげハンヤ節を踊るしまつ、などなど。おそらく県内津々浦々でこのような光景が見られたことだろう。

同日のこてる日記:
『「ドラゴン怒りの鉄拳」と「黄金狂時代」を見に、8時少し前にスカラ座に行った。いっと見れ君に前売り券を売ってもらいそのおかげで一番最初にエレベーターにのり一番最初に「ドラゴン」を見ることができた。
やった!!やった!!オレは野球のドラマを見た、聞いた!!鹿実が延長15回5−4で東海大相模を破り(実際は「敗り」の誤字)、ベスト4進出を果たしたのだ。9回、14回につづく三度目の正直で勝ったのだ!!!!』
午前は映画を見に行ったことを書いている。その年の正月ブルース・リーの「燃えよ!ドラゴン」が公開されて以降ブルース・リーブームはまだ続いていた。そして唐突に野球の話題になり興奮冷めやらぬ気分で日記を書いている。「!」の多さがそれを物語っている。そしてそのまま早くに寝てしまった。どっと疲れていたのだ。

翌日8月18日の準決勝対防府商戦は定岡は調子が悪かった。何せ13日、15日、17日と短期間で試合が続き元々食の細い彼は体重が6kgも減っていた。定岡は2塁から本塁突入で手の捻挫をして降板し悲劇のヒーロー扱いされある意味ラッキーだった。あのまま投げていればぼこぼこにされていただろうし間違って決勝に行っても銚子商に完敗していたはずだ(防府商は0−7で負けている)。ただ、鹿実はこの試合から野球名門校への道を歩み出す。それまでの鹿児島商業でないとダメだという風向きが変わり有力な生徒が鹿実に集まり出したのだ。同級生のメメちゃんも「こてる、おいはジッギョウに行って甲子園に行くからな」と大きな目を輝かせていた。(実際に入学するも半年もしないうちに退部したのだが)

今後いくら名勝負を見ようとも自分にとってこの試合に優るものは出てこないだろう。我が県でもやれる!と初めて実感、高揚する気分はたった一度きりだから。最近では2013年の宮崎県民(延岡学園)、2009年の新潟県民(日本文理)はおそらく同じ気分を味わったに違いない。常勝県には味わえない感激はそれほど強いものだった。
(↓は凱旋して当時の西鹿児島駅に帰ってきた鹿実ナイン。定岡がひときわ目立っています)

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