ヒトミンチョ家のトシバーの13回忌でカール、チッチと田舎に出かけた。まずは信光寺(真宗大谷派)でデンコーの墓参りを済ませてから法要のある大光寺(真宗本願寺派)に行った。この二寺、歩いて行けるくらい近くにあり、どちらも私にとってはなじみのある寺だ。大光寺には保育園が併設されており、約60年前(1964年から1965年末まで)、私は実家から毎日歩いて通っていた。その実家も今は大光寺に30年ほど前に売ってデイケアセンター「こぎく園」になっている。あの頃は下の写真にある地域が私の全ての世界だった。白丸がかつての実家のあった位置で地図で見ると本当に近いがあの頃は結構歩いて通った気がする。角地にある川平商店には何度も寄ったし、浜田商店は今回あの呉服屋がそういう店名だと初めて知った。親戚の家も特養ビハーラになっているし、変わらないのは先の商店と川平内科、信光寺くらいか。川平歯科はまだなかったし、大光寺も建て替えられてかつてはそこが保育園の位置だった。そもそも国道も今の位置になくて川平商店や浜田商店が通る道が旧226号で、新道は50数年前に出来た。だから海っ子やカラオケ美月などもありやしない。いや、そこにはパチンコ店が2店もあった時期もある。40年ほど前で、こんなど田舎に2店もあったなんて信じられない。私が大学生の頃、たまに寄ってみたらヒトミンチョ家のトシ登り従兄がよく打っていたもんだ。父の故イチオジは日記を書いていて1981年か82年の正月のを読んだら「トシ登りはまたパチンコに出かけている。困ったもんだ」など書かれていて吹き出したことがあった。
午前11時から始まる法要を前にヒトミンチョ家の面々が集まって来た。トシ登り兄は私と会って開口一番「蕎麦は食べ過ぎだろう」とこの前の日記ネタを話題にした。ヒトミンチョも「知っていたら私も行きたかったー」と蕎麦には食いつきが良かったネ(笑)。住職の三部経の読経が始まり、その間住職はよく通る声を出しつつ拍子木をカンカンずっと叩いていた。声も音もよく響く。だいたい40分ほどで終わったが、住職の話では「ヒトミンチョ家の皆さんは今月3度目の三部経で・・」とのことでちょっと驚いた。トシ登りの義母の49日、ヨカトモ妻の25回忌と毎週のように法要があったんだ。
終わってヒトミンチョ家で食事があった。食事はニューふじ会館の弁当でこれもこの田舎の定番だ。ニューふじ会館は旧国道沿いにあったが、10年くらい前だったか今の新国道沿いに移転した。大きな法要が終わった後はそこで親戚一同よく集まったものだ。今回はヒトミンチョ家関係者のみでこれもコロナ禍真っ盛りのころだったら集まりさえどうだったか。
姪の「ヒカル姫の咳はその後どう?」とヒトミンチョに尋ねると「あれからピタッと止まってこてる先生には感謝してますー」と。ちょうど1ヶ月前に咳がなかなか止まらず困っているということでわざわざ青雲会病院に来てもらって処方した薬がぴたっと決まり「こてる先生の株がえらく上がりましたょ〜」とさ。うむ、だろうて。
従兄妹たちと話をしているすぐに時間は過ぎ2時間ほども過ぎてしまった。帰りは当然新国道から南薩縦貫道を通って鹿児島へ帰った。田舎は都会と比べあんまり変わらないように見えるが、50年60年も経てば相当に変わるものだと、今回日記を書きつつ思ったことだ。
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