最近、鹿児島のTV、新聞などでは平成5年(1993年)の鹿児島風水害についての特集が多い。あの一連の大災害ではトータルで100名以上が亡くなった。今年でちょうど30年という節目に当たる。なかんずく鹿児島市内を主に襲った8・6水害についての話題が多い。49名もの犠牲者を出したから当然だろうが、県中央の国分、横川、溝辺を襲った5日前の8・1水害も23名の犠牲者で侮れない被害を出した。
私はその年4月から家族で沖縄に長期出張中だったから幸いにも被害には全く遭わずに済んだ。両親や弟家族も数年前に鹿児島市内から引っ越して南薩に転居していたから家族、親戚で被害に遭った人はいない。「8・6の時は車が浸水してー」とか「断水で困った」とか一切経験していないので、たまに同期の連中とその話題が出てもそれにはなかなか加われないのだ。
しかし、以前「こてる日記」にも書いたような気がするのだが、私にも一つだけある。今回その記事を探したが見つけきれなかった。アップしていないかもしれないし、だとしてもほとんどの人は忘れているだろうから再掲してみる。
ちょうどその災害から1年経ったころ、某製薬会社の過ぎ友MRさんと「大阪で私どもの会社の講演会がありますから行きませんか」と誘われ、アゴ足つきなので土日を利用して沖縄から参加した。講演会も終わり、翌日、大阪の港近くのホテルから伊丹空港に行こうとホテル前のタクシーを利用することにした。行き先を告げると、40歳くらいとおぼしきタクシーの運転手が「お客さん、鹿児島ですか?」と尋ねるではないか。「ええ、そうですけど」「やはりそうですか。言葉がそうなもんで、私も鹿児島なんですよ」と言う。同郷ということで少し話が続いたが、その運転手、「実は去年の8・1水害で家族を亡くしましてね」と語り始めた。おやまあと少し驚いて続きを聞くに「その日は私は会社の宿直で会社にいたんですよ」「ほう」「妻と12歳の娘は自宅にいたんですが裏の崖が崩れて・・」「そうなんですか・・」いやはや、その人にしてみれば、たまたま宿直だったおかげで九死に一生を得たといえるだろう。しかしーだ。「もうあの後、あそこにいたくなくてですね。妻も娘もいないし、鹿児島を出て大阪に出てきたんです」それでタクシーの運転手をしているということだった。
人って自分だけ生きながらえても素直には喜べないものだ。故郷であっても家族の思い出のあるところではさらにつらさが身に染みる。一人遠くで出てきたが、それもまたさみしくもあり、私の鹿児島なまりを聞いてつい身の上話をしたくなったのだろう。災害がもたらした不幸な人生・・私はその運転手にどう声を掛けていいか分からなかった。
今日8月1日であれからぴったし30年。私も60歳を過ぎ、あの運転手もおそらくは70歳を迎えた頃だろうが、あれからどういった人生を歩まれたのか。不幸な災害に関わったとしてもそれなりに幸せな時を過ごしていて欲しいと願わずにはいられない。
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