つい最近、何かの記事で「京都ぎらい」という7、8年前の新書の話題が面白かった。「新書大賞2016」大賞を受賞したその著者は井上章一という人で1955年京都市生まれで京都大学工学部を卒業し現在、国際日本文化研究センター教授というお方らしい。話題になった当時の2016年のNHKラジオ第1「マイあさラジオ」のコーナー「著者に聞きたい本のツボ」でインタビューを受け、歯に衣着せぬ京都洛中への物言いに対し、聞き手のアナウンサーも苦笑しながらのインタビューとなったそうな。
「洛中にあらずんば京都にあらず」という考え方が京都には根付いており、若いころから何度も公然と京都人(洛中の人々)から洛外に住む自分は下に見られ、屈辱を味わってきたと振り返ったというそのエピソードは・・。
「著者の井上さんは大学時代、町屋の研究に行き、その家の主である著名な著述家に出身を聞かれた。嵯峨から来たと答えると、その主は「昔、あのあたりのお百姓さんが、うちへよく肥(糞尿)をくみに来てくれた」と初対面の井上さんに言い放ったという。
さらにそのことを西陣生まれで国立民族学博物館館長などをつとめた著名な学者に、「あなたも嵯峨を田舎だと見下してらっしゃるんですか」と尋ねると、彼はよどみなく「それはあたりまえや」と言い放った。「昔は嵯峨の言葉遣いを馬鹿にし、真似てからかっていた」と初対面の館長が公然と語ったという。
そしてその話を新町御池で生まれ育った友人に言うと、「西陣風情のくせにえらいエラそうなんやな」とまたもやあからさまに見下したという。井上さんはこの町の「エラそさのピラミッド」は奥が深いものなんだと感じたそうだ。
次は井上さんが趣味のプロレスを見に行ったときのエピソードで、京都府出身のプロレスラーがKBSホールに凱旋し、「京都に帰ってきました!」とマイクアピールをした。それに対し野次が飛んだ「お前なんか宇治やないか。宇治のくせに京都に帰って来たと言うな」。その発言を聞き、学者から一般の市民に至るまで、地域差別をして当然、する権利があると考えている京都人とは、金輪際精神的な繋がりは持つまいと思ったとか。」
さらにそのことを西陣生まれで国立民族学博物館館長などをつとめた著名な学者に、「あなたも嵯峨を田舎だと見下してらっしゃるんですか」と尋ねると、彼はよどみなく「それはあたりまえや」と言い放った。「昔は嵯峨の言葉遣いを馬鹿にし、真似てからかっていた」と初対面の館長が公然と語ったという。
そしてその話を新町御池で生まれ育った友人に言うと、「西陣風情のくせにえらいエラそうなんやな」とまたもやあからさまに見下したという。井上さんはこの町の「エラそさのピラミッド」は奥が深いものなんだと感じたそうだ。
次は井上さんが趣味のプロレスを見に行ったときのエピソードで、京都府出身のプロレスラーがKBSホールに凱旋し、「京都に帰ってきました!」とマイクアピールをした。それに対し野次が飛んだ「お前なんか宇治やないか。宇治のくせに京都に帰って来たと言うな」。その発言を聞き、学者から一般の市民に至るまで、地域差別をして当然、する権利があると考えている京都人とは、金輪際精神的な繋がりは持つまいと思ったとか。」
井上さんは自分が京都出身だというと、「京都を麗しく描いてくれ」と自分に依頼をしてくる東京の出版社にも責任の一端はあると語る。「京都人は『どこの雑誌でも困ったら京都特集だ』と鼻をうごめかせ、天狗(増長する)になってゆく。東京がべんちゃら(お世辞)をしてくれるおかげで、彼らが洛外を見下すことが正当化され、私達が迷惑をこうむるのだ」と主張した。
まあ単純にそればかりが原因でもなさそうで、その辺は本にいろいろ書かれているらしい。さらに著者自身も京都人に徐々に毒されていったようで・・以下のことも書かれていた。
井上さんは自身も京都人と出会うことにより、周辺に行けば行くほど見下されて当然だという意識に汚染されてしまい、嵯峨より田舎の亀岡に対し、下に見る気持ちが芽生えてしまったと告白した。「洛中の人間と付き合うおかげで私もいやらしい人間の一翼を担うようになってしまった」と嘆いた。そして自分の書くものに「臭み」や「よどみ」があり読み応えがあるのは、洛中のいやらしい人々が撒いてくれた「肥」のおかげだと自虐的に語った。
おやおや、人はやはりその地域の臭みをどうしても身にまとってしまうということか。京都人のケースが語られているが、この話をカールに言うと「沖縄にもあるよ」という。沖縄では洛中にあたるのが首里でここは琉球王朝のあったところだ。その次が那覇でこれが洛中ではあるが一段下に見られ、せめて泊あたりが一応京都に相当するか。海岸近くに久米という地域があるがそこは中国出身者が多く独自の地位があった。那覇の周囲の小禄などは洛外といっていいだろう。昔の那覇の人には「小禄も日本かなぁ」という言い方があったそうだ(那覇を通り越しての日本が凄い)。今では首里那覇久米泊小禄はぜんぶ那覇市に属している。
カールの祖母の家は首里出身の士族だった。しかし同じ士族とはいえ那覇の家に嫁いだため首里出身の同級生女性に結婚後はなにかと下に見られていたのが悔しかったという。その同級生の息子とカール祖母の次女とはお見合い結婚もしていたというのにね。鹿児島はどうだろう。まあ鹿児島にもある。カールのお花の先生(故人)は、鹿児島市の上町(かんまち)方面(かつての薩摩藩の上級武士が住んでいた)の家に嫁いだが、姑から「うちとは釣り合わない嫁が来た」くらいのことをよく言われ、「あなたたちの時代はそんなことはないとは思うけど」とこぼしていたそうだ。へーえ。
もっとも幕末の薩摩藩で活躍したのは下級武士が住んでいた加治屋町あたりの出身者が多い。西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌などなど。上町方面では五代友厚、森有礼くらいかな。だから旧弊のせいで活躍出来なかった「かんまちんし」を揶揄するような言い方が加治屋町出身の元武士からはあったと聞く。
ま、それでも鹿児島では京都ほどの住んでいる地域での格差社会はない。余計な気を遣わずに済み、有り難いことだと思ったでごわす。
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