春分の日、チッチを空港に送ってから私たちは田舎へ向かった。途中、施設入所のあこネーサ母への面会を希望したが予想通り断られてしまった。せめてガラス越しでもも叶わなかった。まあ、会えても私たちのことを誰だか分からないのだが・・。
実家に行くとチエコンさんはいて、家を開けてもらい線香を上げた。「昔の旅館のが出てきたので置いてます」と「みしま荘」のマッチ箱が仏壇に置かれていて懐かしく眺めた。
私は小学1年生直前から大学卒業、結婚するまでそこで過ごした。売りに出ていた割烹旅館を買い取ったものだったので、親からは「将来は旅館を継ぐのだぞ」ではなく「旅館は継がず医者か歯医者になれ」と言われて育った。弟が歯医者を開業して今の地に移ってから間もなく、親は旅館を売って弟の歯科医院の隣に引っ越した。売られた旅館は平成10年に取り壊され、今は跡形もない。天文館に行ってたまに近くを通るが、うちだけではなく周囲も人や家もほとんどなくなったので懐かしさはあまり感じられない。みしま荘の思い出はほぼ私の昭和時代と重なる。昭和は遠くなりにけり、だ。外に出てみると、裏庭にサワーポメロの木と枇杷の木があって、ポメロはすでに実はないが、枇杷はもういーっぱい鈴なりに成ろうとしていてびっくりした。今年の我が家の枇杷はさほど実の付きが良くなく、それとの差に驚いた。
チエコンさんによると「全く世話をしていない」とのことだが、実の付き具合や数の多さなど圧倒的だ。下が昨日私が自宅庭の枇杷を摘果したもので上の実家の枇杷と比べようもない。そもそも勝手に生えてきた木で特に肥料も与えていないそうだ。裏庭は昔父デンコーが畑にして野菜を作っていたところだ。もともとの土壌の差がこれだけの差になったんだろう。いや、うちの枇杷は味だけは市販のもの遜色ないほどだ。うん、量では負けるが質で勝負だぜっ。この後、車で移動し、墓参りをし食事をしてから帰宅した。その後は安定のゴーゴー昼寝。センバツ甲子園もわずか数分で寝落ちしどっちが勝ったのやら・・。
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