2020年6月11日木曜日

悲しき中津野用水路

夕方、いつもの帰る道の用水路沿いのアジサイを写真に撮った。満開直前でまさに梅雨の風景だ。その反対側はのどかな田園風景。日本だねえ。

姶良の用水路といえば江戸時代に美しくも悲しい話がある。上の写真よりも北側の山田、中津野地区の中津野用水のことだ。すでにWikipediaでも触れられているのでそのまま抜粋しよう。

姶良町の中津野地区(当時は帖佐郷)は、別府川の支流山田川と蒲生川が合流する地点で、地区の両側を川が流れていたが、川より高い位置に土地があるために水を引くことができず、水田がなく稲作は陸稲で、他は畑作農業であった。このために貧しく、中津野というだけで嫁が来ないというほどであったという。

中津野に生まれた
水口ゆきえ(女性、当初は苗字なし、当時15歳)は、山田川対岸の女生嶽(にょしゅだけ、128.8m)の上から見て、山田から水路を造ると中津野に水を引ける事に気付き、熱心に村の大人に提案して工事が始まることになった。しかし農繁期になると次々に協力者が抜けて、最後にはゆきえが1人で工事を続行した。完成が近づくと再び協力が始まり、1752年(宝暦2年)についに完成し、中津野に水田を作ることができるようになった。

しかし、これほど利発な娘は将来何をしでかすか分からないと恐れられ、権力者側により山の中で殺害された。同年12月、有志により水口邸の一角に祠が作られて祀られ、これは現存している。法名は「正孝坂童子位」で、「正しく孝行の子、土地の勾配を見出した」という意味であるが、本来は男子の法名である。

水口家は、この工事の功績により水口の姓を与えられ、代々水守の仕事をしてきた。

1951年(昭和26年)4月15日、水路の取水口に彼女の功績を顕彰する碑が立てられ、1974年(昭和49年)5月に墓が姶良町の文化財に指定され、今なお地元住民から称えられている。

村を豊かにし人々の暮らしをよくしてあげたその報いが無残な死だったとは。なんと理不尽なことだろう。彼女の功績を称える墓と記念の碑が現存するということだが・・。称えるというよりは「ゆきえ」の霊を鎮めるための鎮魂の意味が強かったのかも。「逆説の日本史」の井沢元彦さんならきっとそう解釈するだろう。でも時代が時代とはいえあまりにも悲しい話だ。ゆきえさんの墓の写真を下に写真を載せておく。また山田小学校の教諭が書いた文もある。↓参照。

ただ読めば分かるが最後にゆきえが殺されたことは書かれていない。小学生には酷な事実だろうから。

0 件のコメント:

コメントを投稿