2015年8月18日火曜日

偉大なるトミーおばさん

ブックリバーDrはいつものように内視鏡の仕事に来てくれていたがいつもよりずっと早く昼前には病院を後にした。昼には6人目の子どもの出産が控えていたからである。奥さんは5回目の帝王切開でさすがにリスクが大きいため市立病院での出産になった。予定は男の子で4人目という。しばらくまた大変な日々だろうがまずはめでたいことだ。
今時6人の子持ちは大変珍しい。でも甲子園、九州国際大付属高のピッチャーは14人兄弟姉妹だって。もうビックリを通り越してアングリの世界だ。

生まれる子があれば亡くなるお年寄りがいる。昼過ぎ、携帯にあこネーサ母とカールから交互に何度か送信記録があるも検査中で気付かなかった。何事かと思えば出水のトミーおばさんが亡くなったということだった。ああ・・。聞かされればいつそんな連絡があってもおかしくはなかった。すでに90才代半ばのはずで最近はベッド上での生活だった。それで母が言うには亡きがらは姶良の葬儀場へすでに向かっていて私にどこで(葬儀が)あるか知らないかということだ。そんな今聞いたばかりなのに知るはずがない。葬儀場だって姶良には数ヶ所あるわけだし。「明日になれば新聞に死亡広告がでるのでは?」と言うと、家族葬にするらしく香典もお断りなんだとか。せめて弔電を打ちたいというので姶良の長男のフクスヂ先生宅でいいはずよとアドバイスした。

トミーおばさんには父デンコーをはじめ私たちは相当お世話になった。父の母すなわち私の祖母オエイが11人姉弟の一番上でトミーおばさんは確か下から2番目だったと思う。父からみると叔母にあたるけれど年令は従姉に近かった。戦後10年くらいしてから鹿児島に居を構えていて、父が船舶免許を取るときも居候させてもらったと聞いたことがある。昭和41年に私たち一家が鹿児島に移った後も進学や結婚など節目節目で貴重なアドバイスを頂いたものだ。父が急な手術で私の結納に出席できなくなった時、急遽沖縄まで代理で出てもらったこともあった。カールは「結婚後も原良のおうちにおいでと言われとてもよくしていただいた」と言っていた。

私は出水の三男スチョル先生に電話を掛け、通夜、葬儀の会場を聞き、夕方、出かけた。青雲会病院から車で数分、近すぎるくらい。入ると家族以外では私だけで、県外の長女ヨーコさんと出水の三男ファミリーはまだ到着していなかった。長男フクスヂ、次男てげてげ両先生は沈痛な表情で大往生とはいえ悲しい心情であることが察せられた。遺体はまだ死化粧中だった。「これでよろしいでしょうか」とナチュラルに化粧され横たわっているトミーおばさんを見ると目を閉じ小さくなっているが生前の面影が偲ばれた。「それでいいです」とのことで、ちょうど到着したスチョル先生もいっしょにお別れの言葉を掛け柩にみんなで入れた。軽かった。

そして柩が祭壇に移動されるころ、私以外の通夜訪問者で頴娃のマサカビラ先生夫妻が来られた。マサカビラ先生の亡父は11人姉弟の1番下である。マサカビラ先生は中学高校のころトミーおばさん宅に居候していたそうで、今晩は当番医だったそうだが是非にと通夜に来られた。デンコーも生きていたら同じようにきっと来ていたことだろう。8年前、父が亡くなる日の昼前、トミーおばさんは出水から枕崎までお見舞いに来た。てげてげ先生らが車椅子に乗せてのことだった。おばさんは息も絶え絶えで酸素吸入中の父の姿を見て「およ〜、デンユー」と頬をなぜるも、父は意識朦朧でかすかに目を開けうなずいただけだった。それから約6時間後に父は息を引き取った。

明日の葬式は家族葬ということだが、始まりが13時と知り、これは仕事の都合がつけば出席できるのではないかと思った。式が1時間ほどならちょうど昼休み時間で病院にも迷惑を掛けない。よほど救急患者でもいない限り出ようと思いつつ、通夜をおいとました。

トミーおばさんの子ども4人のうち男3人は全員医師になり娘の子も医師になり孫は全部で5人医師になっている。これはすごい。デンコーが私とヒラーキを医者か歯医者にしたいと熱望したのにはトミーおばさんの影響があったのは間違いない。私と父が鹿大の合格発表を見に行き、結果を最初に知らせたのはもちろんあこネーサ母だったが、帰宅するとトミーおばさんが既に来ていて「よかったがー」と喜んでくれた。私は高校生の頃おばさんに「法学部って何で文系で一番人気なの?」と尋ねたことがあった。すると「そうね、法学部はつぶしが利くからよ」と答えてくれた。まさしくその通りと今の私でも思うが、当時それを聞いて文系進学に是が非でもと魅力を感じなかった。かといって理系科目は苦手分野で大いに迷ったものだ。あえて強制はされなかった。しかし父デンコーとトミーおばさんがいなければ今の「ドクターこてる」はなかったとだけは言えるのだ。

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