「♪逃げた〜女房を恨むじゃない〜が〜お乳〜ほしがるこの子が可愛い〜」
1963年年末に発売され、一節太郎(↑)がデビュー曲で独特のダミ声で唸るように唄い大ヒットした「浪曲子守歌」、実はこの歌の作詞作曲者はなんと遠藤実だった!たまたまBSーTBSで昨日録画していた遠藤実の歌の特集「永遠の旋律!遠藤実 五線譜にかけた夢と絆」(昨年1月が初回放送で今回は再放送)で一節太郎本人がそう断言していた。ピアノで作曲する瞬間も同席していて間違いない事実であった。いや遠藤実ファンの私も知らなかったなぁ。遠藤実(↓)。一節太郎はもともと遠藤実の内弟子第一号だったし遠藤がプロデュースしたことは知られていた。もちろん芸名で本名は曽我英明で新潟出身である。遠藤は東京生まれだが新潟で育っていて、同郷でかつギター流しをやっていたという共通点もある。ならば当然遠藤の作曲した歌でデビューするのが当たり前のはず。しかし1963年に日本クラウンという新しいレコード会社が出来てその第1弾レコード19枚の一つとしてデビューしたため、当時日本コロムビア専属作曲家だった遠藤は自分の名を出すわけに行かず、作詞作曲を越純平という名のゴーストライターに甘んじたのだった。この名前も「越」が入っていて二人の出身地にちなんでいることが分かる。
そもそも日本クラウンは日本コロムビアの「叩き上げ」の常務・伊藤正憲(美空ひばりをデビューされたのも彼)が事実上更迭されたのを機に、伊藤を慕う現場のディレクターたちがお抱えの歌手・作家を引きつれて三菱グループの支援を得てつくった会社だ。ディレクターの馬渕玄三、作詞家の星野哲郎や北島三郎、五月みどりらが伊藤を慕って付いて行った。当時はレコード会社のしばりが強くライバル会社のために遠藤が力を貸したとはとても公言出来なかった。そのために遠藤実関係の歌番組にこれまでは一節は出演することが叶わなかったのだ。実は橋幸夫も遠藤の門下生だったがビクターのオーディションを受け1960年吉田正の曲でデビューすることになった。橋はその前日本コロムビアのオーディションに落ちていて、もし合格していたら遠藤はなんと「舟木一夫」の名前でデビューさせるつもりだったという。3年後に舟木一夫は遠藤の「高校三年生」でデビューし、これも大ヒットしその後しばらくは遠藤の青春歌謡を連続ヒットさせることになるのだ。しがらみがあったとは言え、歌手人生というものはなかなか数奇なものだ。
遠藤はさほど個性が強くない彼にダミ声になるよう声をつぶさせ、芸名まで考えた。一節太郎の名前は本人は嫌だったらしいが、歌のインパクトもあって「浪曲子守歌」は現在までに200万枚を超える大ヒットになり、一節本人も50年以上経った今でも歌手としてやっていけている。ただデビュー曲の印象があまりにも強烈なため他の曲が霞みがちであり、そのことは本人も自覚しているとのことだ。それにしても2008年に遠藤が亡くなった時点で作者名を公表出来なかったのだろうか。遠藤も自身の著書で「公には出来ないが大ヒットした曲もある」と書いていたのはこの曲を指していたのだと番組では指摘していた。歌詞中では「土方渡世のおいら」「どこか似ているめし炊き女」など今ではとても歌詞には出来ない昭和の匂いが強烈である。
この遠藤実の番組、他にも興味深いエピソードと作曲の秘密が紹介されていて最初はちょこっと見ようかぐらいだったのに結局最後まで見通した。うん、これは「保存」にしておこう。また別の曲をネタにするかもしれないしー。
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