朝は内視鏡検査であったが、朝一の甲子園の試合経過が気になっていた。大阪桐蔭対東海大菅生という優勝候補同士の対戦でもあったからだ。5回までで大阪桐蔭が5ー1とリードしていた。どちらかと言えば東海大菅生を応援していた私は東海大もこのまま簡単には引き下がらないはずと思っていた。ところが、モニターで確認すると甲子園は大雨じゃないか。ちょっと野球をする状況には見えなかった。↓グラウンドは水浸しで相当なぬかるみだと分かる。
菅生の打者がスイングすると滑ったバットがどっかに↓飛んでいった。
この試合のキーポイントは7回の表だった。1ー5でリードされていた東海大菅生が追い上げ、3点が入り4ー5になりなおも2アウト2塁3塁でバッターは4番打者、という場面だ。ここで仮に1点が入りその後チェンジになったとしよう。するとおそらくだが7回の裏には行かず5ー5のノーゲームになっていた公算が強い。裏の大阪桐蔭の攻撃があるのに・・という意見もあろうがあのグラウンドでは公平なゲームは出来ない。審判団は後腐れがないようきっとそうしたに違いない。というのも7回の表終了時点で後攻のチームがリードしていると大会規則でゲーム成立してしまうからである。しかし菅生は4ー5にしか出来なかった。雨の降り方からしてここで勝負あっただ。7回裏に大阪桐蔭が2点入れて決定的になった。ただ雨のせいで菅生の投手がかなり投げにくそうだった。だから8回表も菅生に攻撃させようと審判団は温情を掛けたが・・確かに菅生がランナーを出しチャンスを迎えたがショート前の凡打がぬかるみで止まってしまっての内野安打で、これはいけない。そこでとうとう降雨コールドになってしまった。まあ普通に見て大阪桐蔭の方が強かった。大方、納得の結果ではないか。
で、その後だが、この試合はワイドショーなどでも取り上げられていた。どういうことかというと、こんなに降雨中止になって日程がずれ込み、降雨コールドゲームになったり、21時を過ぎる最遅試合が出たり、開会式から10日経ってもまだ試合がないチームが出るなど問題がある、いっそ甲子園以外の球場(たとえば屋根がある大阪ドーム)でも試合をさせるべきじゃないか、というものだ。それに他のゲストらも賛同していたようだが、私は画面に向かって「違う違う!」「分かってネーな」と言い放った。断言するが例えこの状況になっても高校球児らはあくまで甲子園で試合をしたいのだ。誰もが「夏の高校野球選手権大会に行きたい」とは言わず「甲子園に行きたい」「目指せ甲子園!」と言う。とにかく「甲子園で試合をしたい」が夢であり目標なのだ。戦後最初の大会だけは甲子園は占領軍に管理されていたせいで西宮球場で再開された。その後甲子園に戻るも、例えば40回と45回の記念大会は特別に各都道府県から参加させ出場校が1.5倍になったので西宮球場(18試合のみ)と甲子園で平行して行われた。だが、この時に甲子園で試合が出来なかった参加校から相当の不満が出たという。そこで5年後の第50回記念大会からは全て甲子園で行うことになったのだ。
このことで今回記事が出ていた。甲府商業の堀内恒夫(当時は投手ではなく中堅手)は第45回記念大会(1963年)の3回戦まで戦ったがすべて西宮だった。あと1回勝てば次は憧れの甲子園で試合が出来たのだったが、その時は「でもまだ1年生だったから次があると思っていた。でも、俺が在学中に再び甲子園で戦うことはなかった。そこで初めて強く思ったんだ。甲子園でやりたかったって。辛い練習も全て、全国大会に出たい、『甲子園に行きたい。』『甲子園で勝ちたい。』『甲子園』なんだ」と振り返り、「あくまで、俺個人の思い」と断った上で、夏の選手権大会が雨天順延などの環境要因に左右される状況下でも、甲子園球場で開催されることを支持したというのだ。私は古くからの記事などで選手らが「やっぱり甲子園でプレイしたかった」と言っているのを見ているから、堀内の言う「個人の思い」なんかじゃなくて全然「高校球児みんなの思い」なんだと知っている。もう甲子園出場は球児にとって最高のブランド化しているのである。その意味ではコロナでの宮崎商の選手らは本当に気の毒だった。東北学院は選手1人のことを気遣って2回戦は辞退したというが校長が周囲に気兼ねしての独断じゃないだろーな。私は選手らがそれに同意しているとはとても思えない。コロナに罹った選手も「自分のせいで・・」と一生気にしそう。まあ一度戦って勝利もしているから宮崎商ほどの無念さはないか。
いずれにしてももう高校野球は甲子園とは切っても切れない関係にある。そもそもが高校野球過熱ゆえに大正時代に造られた球場だ。この時期、阪神が高校野球のためにロードに出るのは当然で当たり前なのであった。
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