2020年2月27日木曜日

母校松原小学校再訪

実は今、母校である鹿児島市立松原小学校のイマジン校長から「教えて先輩」という児童向けの講演を頼まれている。児童へのキャリア教育学習の一環で母校の先輩が後輩たちに自分の学校時代の思い出や今の仕事に伴う話などして欲しいとのことだ。イマジン校長とはセントラル高校の同窓生で2年ほど前に飲み会で「いつか頼むからな」と言われてはいたが、その後音沙汰なくすでに彼も定年が近くあの話はなかったんだと思っていた。時期も押し迫っての今月初めに電話があって「お願いする」と言われOKをしたのだが、一度母校を見ておきたいと思った。それで今日半日時間があったので「見学したい」と連絡すると「どうぞどうぞ」とのことで14時半ごろ小学校に出向いたのである。

松原小学校は鹿児島市内のほぼ中心にあり、天文館にある山下小学校と港方面の城南小学校の間にある。私は昭和41年から47年の3月まで通い、思い出がいっぱい詰まった学校である。裏門から車で入り、給食室の横に駐めて校舎に入った。校舎の壁は薄くグリーンに彩られているが形は昔のままである。イマジン校長から「68年前に建てられ鉄筋コンクリートでこれだけ古い校舎はここだけ。1年後には建て替えが始まる」と聞いていた。校舎がそのまま残っているのは有り難い。1階廊下を歩き、校長室に入る前にトイレに向かった。用を済ませておきたかったのだ。小用中に、隣に小学2年くらいの男子生徒が来て、並んで連れションになった。するとその生徒が「センセイ、そのスリッパ、うんこ付いているヨ」と言ってニッと笑った。な、なにー?すぐには動けず、後で確かめるとどこにもうんこは付いていない。いやー、さっそくの洗礼を浴びたよ。

校長室でイマジン君に松原小の沿革や現状などいろいろと聞いた。校旗の文字はなんと東郷平八郎元帥が書かれたものだとか、昭和30年当時の市街地は木造平屋建てばかりの中、山形屋や高島屋(のちタカプラ)などと並んで立派な鉄筋コンクリートの建物で周囲を圧倒していたなど創立143年の伝統ある学校であることなど写真もあって興味深く見た。
 下の写真、桃丸が松原小学校、黄丸が天文館公園、黄矢印が私の自宅のあった付近、桃矢印が山形屋、青矢印が高島屋、赤矢印が照国神社の鳥居である。松原小は戦前は天文館公園の場所にあったが焼けて南林寺墓地のあった現在位置に移動している。↓拡大OK。

校内見学では私まず図書室に行ってみたかった。毎日のように図書室に行ってはいろいろな本を眺め、読むのが好きな子だったのだ。もっともそれは小学3年以降のことで低学年のころは騒がしい子どもで先生にしょっちゅう叱られていた。最初に問題を起こしたのが1年生の時のランドセル消失&焼失事件で、放課後、習字教室に忘れ物を取りに行った後に私のランドセルがなくなった。探すも見つからず泣いて家に帰った。翌日、1階裏庭の焼却炉の中に捨てられていたのが見つかった。今でも犯人は知らされていないが同級生の誰かが廊下に置いた私のをいたずらで投げ込んだのだ。後日その母親が新調したランドセルを持って謝りに自宅に来たという。

また1年の時、2時間目と3時間目の合間に同じクラスのノブシゲ君と「健児の山までどっちが速いか競争だっ」とかけっこして私の方が速かったのはいいとして、勢い余って山の途中の土管にどかんと頭をぶつけ血まみれになった。いまでもその時の傷跡は小さなハゲとして残っている。↓が今はなくなった「健児の山」の写真、黄矢印がぶつかった土管。
2年生の時には校庭にあった観察池で日曜午後遊んでいたら私が水道管をいじったのかな?水が噴き出し止まらなくなって大騒ぎになった。当直の先生などに迷惑をかけ、翌日、担任の石原先生(かなりのおばさんだった)に「こてる君、前に出て来なさい」「昨日何があったのかみんなに言いなさい」と言われ、しゃべろうにも泣き出して何も言えなかった。先生が「観察池でXXしたんでしょ」と私の悪さを暴露していたが最初から先生が言ってよーと思ったものだ。↓観察池。鹿児島県の形をしているのは昔といっしょ。昔は芝生だったが今はコンクリだ。

図書本では民話、ホームズ物やアルセーヌ・ルパン物などのほか、歴史本などが好きだった。ホームズ、ルパンはポプラ社のものが定番だったが今はイケメン漫画のようなイラストの表紙の本になっていた。あの頃は冒険物、推理物にやたらハマっていたものだ。

郷土室といって物置のような部屋があった。古い民具や郷土の偉人などの資料、学校の沿革を記した物などあって少しほこりっぽかった。松原小といえば錦江湾横断遠泳でその年ごとの資料も残っていた。私が小学1年の時に始まった夏の行事で今でも毎年ニュースになる。その後清水小学校でも始まったが、当時の瀧川亀喜校長の肝いりで始まったということは知っていた。私にとっては校長先生といえば瀧川校長というくらい印象に残っている。↓右が瀧川校長、左が後任の山田校長。
イマジン君によるとプールが完成した昭和40年でその頃ある生徒が川か海かで溺れて死んでしまったこともあり、泳ぎを教え水に強い生徒にしたいという思いから瀧川校長が復活させたそうだ。最初は学校の行事であったがそれには何かと問題が生じたようですぐに同好会主催に変更になったのは覚えている。私は参加しなかったが参加者名簿を見ると知っている同級生が何人もいた。名前を見るだけで懐かしい。↓手漕ぎ船なのに時代を感じる。

また、瀧川校長とは1対1でお話をした思い出がある。そのことを2010年1月21日のこてる日記「さこんたろ」に書いている。ただ、ブログ移行前で今は読むことが出来ない。今日の日記が長くなるが一部再掲しよう。その日、南日本新聞に「さこんたろ」の話題が出ていたの見て40年ぶりに疑問が解けたことを話題にしていた。

「・・小学3年だったか、4年だったか、昼休みだったか放課後かも覚えていないが、いつものように池を見ていたらそこに瀧川校長がやって来た。池は校長室からも近かった。

池には当時「鹿威(おど)し」があって水が竹筒に入ってコトンと動き水を吐き出し、また水が入ってはコトンを繰り返していた。校長先生は私がそれを見ているのに気付き、いきなりその解説を始めたのだ。「あれはね、『さこんたろ』と言ってね・・」

私は校長先生と二人きりで話をするなどそれまでもちろんなく、その竹筒がどんなことをするのか丁寧に教えてくれはしたものの、緊張もありどんな用途でどんな由来があるのかなどさっぱり理解できなかった。ただ、それを「さこんたろ」と言うのだとだけはしっかり覚えていた。

しかしである。幼な心に覚えたその用語は世間ではどうも「さこんたろ」は言わないらしいとは気がついていた。どうも方言くさい。語感も何となく野暮ったく笑われそうで人前では「あれは『さこんたろ』だよね」とは決して言わなかった。高校生か大学生くらいだったか、一般には「鹿威し」というのだと知り、なおさらその言葉は封印し胸に閉まっていた。

でも、あの瀧川校長が根拠のないことをかわいい生徒に言うだろうか。「さこんたろ」って出まかせで言える言葉じゃない。校長先生にたった1回だけ個人教授されたことなのに何となくしっくりとしない思いがあった。

それが今日の新聞記事である。写真を見た時、すぐに分かった。まさに鹿威しと同じ原理の器具で精米に使うのをその地域では「さこんたろ」と言っていたのだ。瀧川校長はそのことを言いたかったのだろう。40年以上経って私はやっと理解した。「さこんたろ」という言葉は使ってもいいんだ。何も恥ずかしがることはない。

瀧川校長も若そうに見えたが何せ校長先生だ、あの頃は今の私より年配だったろう。生きていたら90才から100才ぐらいの高齢のはず。もし会えたら「やっと意味が分かりました。これから恥ずかしがらずに『さこんたろ』って言葉もどんどん使います」と言いたい。ありがとう、校長先生。」


瀧川校長の任期は校長写真によると昭和44年3月までだった。で、その一件は私が小学3年の時だったとはっきり分かった。「さこんたろ」は大きな鹿威しで米つきなどに使われていて大隅地方や宮崎でそう呼ばれているようだ。ネットによると磯の仙巌園にもあるとか。

講演は「わらべ室」という部屋で行うということで私のMacBookProと接続してみてちゃんとスライドや音声も出るか試した。特に問題なし。この後、イマジン校長と校庭に出てみた。放課後で男子生徒数人がソフトボールで遊んでいた。


寄ってきた児童らに校長が「この人も松原小の先輩だよ」「こんにちわー、いくつなんですか」「私といっしょだから60才だ、今度みんなにお話してもらうからね」「はーい」とまた散らばった。うーん、私らの50年前の姿と言ってもいい。彼らにとってためになる良い話をしたいと思った。その講演の日は3月19日の午後であった。イマジン校長ともその時はよろしくと言って別れたのだが・・。夕方、TVを付けて唖然とした。みなさんご存じの通り、安倍総理の学校の一斉休校要請のニュースが流れていた。
これはどうみても私の「教えて先輩」講演はお流れになる。一気に気が抜けた。新型コロナの影響をもろに受けてしまった。まだスライドは作っていないので楽になったとも言えるがー。

翌日、イマジン校長からメールが届いた。「報道のとおり、一斉臨時休業です。教えて先輩は、4月以降に一旦延期させてください。昨日せっかく盛り上がったのにちょっと残念。キャリア教育の一環で是非やりたいから、その時はお願いします。」彼は定年のはずだが・・とりあえずはいつでも出来るよう簡単な準備だけはしておこうか。

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