2014年5月11日日曜日

天草南下

ホテルの部屋はネットが使えず朝の出発時にロビーでネットがようやく出来、天草についていろいろ調べてみた。ウィキペディア(Wikipedia)を読むといっぱしの天草通になれる。例えば、かつて天草諸島と肥後国天草郡は一致していたが、薩摩の島津忠兼が天草に侵攻し、肥後の相良氏に追われていた長島の長島氏を庇護下においたことにより1581年、長島・獅子島などが薩摩国出水郡に編入され、このときの国境が現在の県境ともなっていること、1966年(昭和49年)完成した天草五橋は当初は償還期間39年を見込んだ有料道路であったが、開通により天草への観光客が急増し、モータリゼーションの進展なども含めた交通量の増大によりわずか9年で償還を完了して無料化されたこと、天草下島に苓北(れいほく)町という町があるが、この「苓」の意味はだじゃれからきていて、天草と同じ読みから漢方薬にも使われる「甘草(カンゾウ)」、そして甘草の漢名「苓」から採って天草を「苓州」とも呼びその北に位置する町で苓北と称したことなどいずれも面白いって思った。

2号橋、3号橋、4号橋はほぼ連続していて4号橋を過ぎたところで左折し天草パールマリア館の駐車場に行き天草四郎の銅像と橋をバックに写真を撮り、さらに有名な5号橋を過ぎここも背景に写真、天草天空の船のある丘からまた写真を撮りまくった。このあたりは風景がいいね。

このあと200円で通れる松島有料道路を走って天草上島を南下し下島へ渡る橋を通ると天草工業高があって運動会の真っ最中だった。最近は春運動会も多くなってきている。そのまま真っ直ぐ行けば下島南端の牛深まで行けるが今回は観光目的だし右にハンドルを切り西海岸に向かった。今は天草市の旧本渡市は意外に町だった。ここが島とは思われないくらい。カール曰く「枕崎よりはずっと町じゃない?」と。ずーっと走らせると島原が見えて来た。地図によればこのあたりからフェリーが出て30分ほどで渡れるそうだ。そうか、40年前の修学旅行ではここからフェリーに乗って島原雲仙観光に向かったんだ。フェリーの中で今は関東の某市長となったFS君といっしょにいるところをACさんが写真を撮ってくれ(白黒写真だった)たのを思い出す。そのころから私の風貌はおっさんくさくなっていて隣のFS君とはえらい差だと実感した。年上風に見られなくなったのは30才を過ぎてからで最近では若く見られるほどだ。

このころプリウスの燃費計を見ると22.6km/lでここ数年では一番燃費が伸びていた。車検での調整が効いている。場所は例の苓北町に来ていて観光案内所に車を止めトイレ、お土産店に入った。店には大きなパネル写真があってなんと「苓北町のパワースポット、おっぱい岩」と称する海岸岩が飾られていた。へー。どこにあるかとマップで調べるとちょいと通り過ぎていた。そこでぜひ見てみたいとバックすることにした。「おっぱい好きなんだからー」とカールに言われてもかつておっぱい星人を自認していたからにはまあ当然だ。それに乳の出が良くなるとか乳房が大きくなるとかの御利益もあるらしい。で、一人海岸に降りてそれらしき所を探したのだが見つからない。場所を間違っていたか満潮では見えなくなったかで結局あきらめた。ううむ残念。

この後は天草灘を右手に崖や田舎道を走り途中妙見浦で写真を撮りさらに南下した。確かこのあたりに大江天主堂があるはずだがと走らせるとまたもや少し通り過ぎてしまった。戻って小高い丘に上がると白い天主堂はあり中に入ると落ち着いてとてもきれいな所だった。この時ちょうど12時半で日曜朝はミサが開かれるため11時半からの開館だったらしくいいタイミングだった。

この後から湾奥に入り景色が少し変わった。波は静かで干潟もあった。羊角湾の少し離れた小島に海上コテージがあったのにはびっくりした。あれ、電気はどうしているんだろ。(後日調べたところ「河浦海上コテージ」で宿泊、休憩も出来エアコン完備というから電気はつながっているようだ。http://blogs.yahoo.co.jp/bigfish3627/2741417.html

牛深に着きフェリーに乗り込んだ。これに乗るのは昭和60年同期のバスケ部員ら5人でレンタカー卒業旅行したとき以来だ。別府、長崎と周り帰りは島原とここのフェリーを使って帰鹿したのだった。天草も20年に1回くらいしか来ないところということでもしかするともうこれっきりになるかも。港にかかる立派な橋を眺めながらそう思うことだった。

この後は長島道の駅で遅めの昼食を摂り。出水に少し寄って紫尾峠でカールを運転を代わりその後は爆睡、カール運転で姶良インターから高速利用後は錫山バイパスから田舎まで直行しあこネーサ母を送り届けた。いやあ、観光と親孝行もでき、いい休日だったよ。

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