少し安堵して録りだめビデオを見ることにした。NHKBSのアナザーストーリーズ「小野田少尉 帰還~戦後29年ジャングルの中で」でこれは面白かった。と同時に意外と知らなかったことが多くて考えさせられる内容だった。1972年に横井庄一さんがルソン島での発見され、帰還が大きな話題になったばかりで2年後にまた残留日本兵が発見!とのニュースには驚いたものだ。ただ多くの残留日本兵と違うのは彼が陸軍中野学校出身で何が何でも生き延びて諜報、戦闘活動を続けよという教育を受け戦争を続けていたということだ。しかしそのためにルバング島住民からは怖れと憎しみの対象になる。発見、投降しフィリピン軍に確保されたのだがその裏では住民による小野田殺害計画があったという。小野田にしてみれば島は日本に占領されているのだから住民襲撃は正当性があったが、事実は戦争は終わり平和で無抵抗なのに殺されたり襲撃されたりしたのだから恨みが相当募っていたわけだ。
1950年に小野田一味の一人赤津勇一が投降し小野田寛郎、島田庄一、小塚金七の3人が残留していることを報告し、1954年には島田庄一が警察軍に射殺されたことで生存が裏付けられた。その後数回に渡り捜索隊がルバング島を訪れ、特に1959年は大々的に捜索するも発見できず法律によって死亡宣告された。両親は一応受け入れるも内心は信じず待ち続けたという。1972年10月に地元警察との戦闘で小塚金七が射殺され一人が逃走し小野田が生存していることがほぼ確実となり大捜索隊が組まれ、父の種次郎さんは「寛郎へ 父」と書いたビラを書き、長兄の敏郎さんも参加した。後になって分かるのだが、小野田はビラも見ていたし兄すら見かけていたが、アメリカの支配下の傀儡政権に強制されての行動だと推測し名乗り出ることはなかった。断片的に天皇人間宣言や皇太子成婚、東京オリンピックなども知ってはいたが、大東亜戦争には負けたがこんなに繁栄していて本当に負けたのではなく次の戦争のために備えていたのである。情報が断片的だと強い信念の持ち主にはいろんな解釈が出来、自分の中では矛盾なくストーリーが出来てしまうものなのだ。これは個人のみならず多数の集団でも起こりえ、戦後のブラジル日系人でも起きた。いわゆる「勝ち組負け組」論争で戦争に負けたこと信じない勝ち組日系人が日系人を殺す事件が頻発した。数年で沈静化するも10年近く余波が続いたという。真実を伝えても連合国のプロパガンダだとして信用しなかったなど小野田さんそっくりである。
番組でいくつも印象的な場面があるが、投降して報道陣に最初に出てきた時の敬礼の映像は有名だがやはりすごい。目つきが軍人そのものなんだ。
ただそこにいた読売新聞の記者はその後のパーティで小野田がナイフとフォークを使いこなすのをみてジャングルに30年もいた人が・・と驚愕する。元は商社マンで手慣れたものだったらしい。それと会見でインタビューアーが「日本が戦争に負けたということをうすうす感じられたのはいつ頃のことでございますか」の質問に「は?」という表情をし「もういっぺん」と聞き返した。この時の表情はなんともいえない。答えは「全然ありません」で一蹴した。
ただそこにいた読売新聞の記者はその後のパーティで小野田がナイフとフォークを使いこなすのをみてジャングルに30年もいた人が・・と驚愕する。元は商社マンで手慣れたものだったらしい。それと会見でインタビューアーが「日本が戦争に負けたということをうすうす感じられたのはいつ頃のことでございますか」の質問に「は?」という表情をし「もういっぺん」と聞き返した。この時の表情はなんともいえない。答えは「全然ありません」で一蹴した。
あと、発見したのは「パンダ・小野田さん・雪男」に遭うのが夢というバックパッカー鈴木紀夫さんという人で小野田さんに銃を向けられるも毛の靴下にサンダル履きという原住民にはない珍妙なスタイルであったため、事なきを得て接触に成功した。おそらく小野田さんも戦友を1年半前に亡くし孤独感があったのだろう。写真も撮らせ、これで生存が確実となり兄も確かめ、電話で両親に報告する様子が動画で出てきた。こんなケースでは残された親はたいてい会えないか死に別れているものなのに、何十年も待ち続け、生きて会えて本当に良かった。帰国後は当然大騒動で小野田さんは居心地の悪さが続き、次兄のいるブラジルに渡り牧場を開く。原野を開拓し当初ほとんど収入はなかったが7、8年で軌道に乗ったそうだ。その時の表情は穏やかでまるで別人(↓上)。これが本来の姿だったんだろう。ついでに若き日上海商社マン時代の写真も載せよう。(↓下)
戦争でこれだけ人の表情は変わる、その影響の大きさにため息が出た。
0 件のコメント:
コメントを投稿