2021年2月19日金曜日

木全心一はなぜ循環器内科を選んだ

 私は患者さんの名前や生年月日などを見てそこから話題を広げる癖がある。

例えば太平洋戦争戦時中の生まれの患者さんに「あ、だから五十六なんですか」と尋ねるとまさにそのとおりだった。生年月日が昭和18年5月21日だったからだ。日本海軍元帥山本五十六はブーゲンビル島上空で撃墜され亡くなったのが昭和18年4月18日のことだった。しかしその死は国民には伏せられ1ヶ月以上経った5月21日に公表されたのだ。ちょうどその日に生まれた我が子に、親は山本元帥の死を惜しみ五十六の名前を付けたのだろうと推測したのだ。

また「完爾」という戦中生まれの患者さんもいて、「石原莞爾から取ったのですか」には「そう聞いています」だった。石原完爾は陸軍の有名な軍人で満州事変を起こしたこともでも知られる。東条英機を徹底的に嫌い対立し、病気もあってか戦犯指定から免れたが、本来なら東京裁判にかけられてもおかしくなかった。

以上の二人をしても、戦前戦中の有名軍人さんというのはある種スターだったんだなというのがよく分かる例だ。

ところで今日の中年男性は木全〇一という名前だった。私は「ほう、有名な心臓の先生と一字違いですねえ」と語った。木全は「きまた」と読む。鹿児島にはあまりいない名字だ。私は専門外だが「木全心一(きまたしんいち)」という心臓、循環器内科の先生がいるのを知っている。心臓の本で知っただけの会ったことも見たこともない先生だ。でも、何て言うか「この先生、まさに名は体を表すだな」と印象に残っていた。「木全心一」の漢字を並べ替え、「木」の横線をちょっと上にずらせば「不」になって「一心不全」となり心臓の代表的な病気である「心不全」を連想させるんだ。医学部卒業時に東大冲中内科(第三内科)に進みその後循環器を専門にしたのも、絶対に「心一」という名前から心臓に親近感を持っていたからだろうと私は推測している。

そのことを患者の木全さんに教えてみたら、予想以上に受けていた。笑って「いやー、えらい先生と名前が似ているなんてうれしいです」って。

それはともかく、名付けって大事って思う。木全心一教授が肝一や腎一だったら肝臓や腎臓の先生になったかも(笑)。

木全心一先生についての説明がネットにあったので以下記載:(川名正敏氏寄稿)
木全先生は, 循環器領域に限らずさまざまな領域での研究・教育・診療・医療経営で多くの業績を挙げられたばかりでなく, 東京女子医大では数多くの医局員を育てられてきて, その先生たちが日本各地で活躍されています. このような文章を私が書かせていただくのは僭越ではありますが, 本誌よりご依頼がありましたので木全心一先生のご指導を受けた者の1人として書かせていただきます. 木全心一先生は昭和8年東京にお生まれになり, 昭和27年都立千歳高校卒業後から東京大学へ進学され, 昭和33年に東京大学医学部医学科を卒業されています. 1年間の附属病院での臨床研修後昭和34年に東京大学医学部第3内科に入局されました. その後昭和38年東京大学大学院生物系研究科第一臨床医学専門課程博士課程に入学されて, 昭和43年同博士課程を修了されました. 東大第3内科に在籍されていた時代には, 心臓と自律神経に関する研究をスタートされていて, 心臓交感神経の分布や心臓交感神経を完全遮断した場合のカテコラミン分泌に対する影響を明らかにされました. 

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