2015年6月26日金曜日

シオシゲ監督、高校野球に喝っ!

午後の外来で久しぶりに会った元鹿児島商業の野球部監督のシオシゲさん、いつものように診察はそこそこにして後は高校野球談義だった。高校野球オタクを自認する私にとって現場の監督だった人と話しあえる貴重な機会でもあり、シオシゲさんも甲子園での試合のエピソードを語ってすぐに反応が返ってくる私とは話し甲斐があるようでいつも診察の時間が過ぎてしまう。今日はちょうど患者も途切れていいタイミングだった。

「南日本新聞が鹿児島の高校野球の特集をしていて6月16日にようやく私の記事が載ったですがー」と言われ、ああ黎明期の大正時代の一中(現鶴丸)から鹿商の全盛期、玉龍のベスト8、鹿商対鹿実のライバル関係など知っていること知らなかったこと確かに興味深い内容だ。私は当然「読んでますよ。スクラップ代わりに記事をデジカメに撮ってます」と答えた。だが・・である。ちょうど16日の昭和61年の鹿商の甲子園ベスト4のところだけ読んでいなかったのだ。ちょっと冷や汗もの。

「今年の夏はやっぱり神村ですかね」と問うと「うんまあ、しかし夏は一筋縄でいかない。あそこも選抜に出たけどコールドみたいな負けじゃった。神村のオダ君(小田大介監督のこと)にも私は言っているんだ。高校野球は謙虚にならなきゃいかん。優勝だ優勝だと大きなことは言わず、例えば串木野駅の掃除などするなり地域に溶け込む努力も必要だ。県外選手ばっかしと陰口をたたかれているようではなかなか勝ち上がれない」となかなか鋭い。
「鹿児島城西には今もアドバイスをしているんですか」「いやもうやっていない。あそこも沖縄の選手が多いな」「え、なんでですか」「監督の金城和彦が沖縄水産出身だからな」「ほう」「沖水とは国体で当たって勝ったなあ(昭和61年、準決勝で7−6で勝ち、決勝でも東洋大姫路に3−1で勝ち優勝した)」「でしたよね」

そこで鹿商の監督就任のいきさつを聞くと、意外にも「私は商業出身ではないし引き受けたくはなかった」とのことだ。新聞記事にもそう述懐している。「あそこは(OB連中が)うるさいから」という理由のようだ。しかし当時の「包帯」校長が離島の中種子高を県ベスト4に進めるなどシオシゲ監督の力量を買っていてぜひうちに来てくれと熱心だった。「高校はですね、校長の権限が強いんです。最初断っていたのだけど外堀を埋められ引き受けざるを得なかった」そうだ。しかし鹿商の外様監督は初めてのことで案の定「何であいつに」とか、試合で負けると電話が掛かってきて「ワヤ(お前は)、野球を知っちょっとか!」など言われたりしたそうだ。でも包帯校長は低迷期に入っていた鹿商野球部をなんとか復活させたいという思いが強かった。昭和61年選抜、そして10年ぶりの夏甲子園に出てベスト4という成績を残し、包帯先生はすでに定年退職していたが「私の判断は間違っていなかった」と周囲に言い残したそうだ。シオシゲ先生は若かりし頃、広島商や中京に自腹で出向き練習方法など教えを請いすぐに実践するなどハマリ方が違った。確かに先生でなければ鹿商復活は難しかったことだろう。

この他まだ高校野球談義は続いたが診察室奥の廊下にチラチラと看護師さんが顔を見せると、豪放なシオシゲ先生もさすがに「お、もう後が控えているでしょうから」と話を打ち切ろうとした。それほど忙しくもなくまだまだ話したりなかったがまたの機会もあろう、「内科診療」を終えることにした。しばらくして、2006年鹿児島工のベスト4の時のN迫監督はどうだったか聞いてみたかったのを思い出した。N迫監督の妻とうちのカールはダチだからいつか会う機会もあるかもしれない。同じ甲子園ベスト4監督としてお互いをどう思っているかちょっと興味があったんだよなー。

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