「1957年(昭和32年)2月10日午後9時40分頃、名古屋から神戸へ向け航行中のデンマーク国マースクライン会社所属エレン・マースク号が、和歌山県日高郡美浜町日の岬灯台の北北西5マイルの海上で、徳島県海部郡海南町船磯庚一さん所有の機帆船「高砂丸」が火災を起こしているのを発見した。
エレン・マースク号は、ただちに接近して救命艇をおろし高砂丸の乗組員3人の中、ただ一人の生存者を救助したが極度の疲労のため縄ばしごで本船に乗り移るさい力つきて舷側から転落した。
これを見たマースク号の機関長として初航海に従事していたヨハネス・クヌッセン氏(39才)は身の危険をかえりみず暗夜の激流の中に飛び込んだ。たまたま同夜は風速20メートルの北西の季節風が吹き山のような大波が荒れ狂っていた。
クヌッセン氏の尊い犠牲的な行為も闇夜しかも凍てつく激浪の中如何ともしがたく無念、船員と運命をともにしたのである。
クヌッセン氏は、翌11日早朝日高郡日高町田杭海岸で水死体となって発見され、この救命艇も氏の遺体からほど遠くない場所に漂着したのである。私たちはクヌッセン氏の国境を超えた深い人類愛に燃え身命を賭して救助に立ち向かった勇猛果敢な行為を広く顕彰するためこの救命艇をここに保存し遺徳を後世に伝えるものである。」
大塚薬報ではマースク号の船員らが「危ないから」と言う間もなくクヌッセンは飛び込んだという証言や後に彼の兄が日本にやって来て弟が日本の人に顕彰され胸像や碑まで建てられていることに感激したということも触れられていた。クヌッセンのエピソードはその後地元に人にずっと語り継がれるだけでなく教科書の副読本にも載るなど日本人にもよく知られるようになった。たまたま私は習わずこれまできていた。
同じ紀伊水道では有名なトルコ(当時はオスマン帝国)の1890年のエルトゥールル号遭難事件がある。こっちはもっとすごくて500名以上の遭難者を出すも69名が助かりその際に地域住民が救助にあたり日本政府も尽力した。これでトルコの人たちは日本に親近感を抱きその後日露戦争で日本が勝利するとロシアによる圧迫を受けていた住民は東の小国日本の快挙に熱狂したと伝えられている。それが巡り巡ってイラン・イラク戦争の際に生きる。在イラン邦人がイランから脱出できない状況に陥っていて、野村豊イラン駐在特命全権大使がトルコのビルレル駐在特命全権大使に窮状を訴えたところ、ビルレルは「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もが、エルトゥールルの遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」と答え、飛行機を派遣し215名の日本人全員がトルコ経由で脱出出来たのであった。私もその時に初めてそのエピソードを知った。
国は違えども災難に陥った外国の人を身の危険があろうとも助けようとする。私はクヌッセンのエピソードを思いつつ、すこし目頭が熱くなっていた。人類愛に満ちた崇高な行為に感激した・・からではない。もう一つ、紀伊半島沖で起きた名もなき海難事故のことを思い出していたからだ。この付近は昔から海難事故の多いところなのだ。それは1965年(昭和40年)10月中旬のこと、鹿児島の栄進丸というごく普通の貨物船が大しけの中で荷崩れを起こし転覆し船長以下5人は荒れる海の中に投げ出された。デンコー船長は崩れ落ちた材木に右脚を骨折しイチオジ機関長も材木に掴まり助けを待った。たまたま通りかかった別の日本の貨物船に運良く発見され全員救助されたが栄進丸は沈没した。夕方6時台のローカルニュースでこの事故が報道されたのを小学校入学前だった私は覚えている。
もしこの時に投げ出された船員たちが助かっていなければ・・おそらくは今の私はないだろう。私の運命を変えた海難事故だったのだ。父デンコーが一命をとりとめたのは最大の幸運で、栄進丸がなくなったのもある意味運が向いた。「もう、陸(おか)の仕事をせい」と祖父デンシローが船舶保険で割烹旅館を買わせ小学校から鹿児島市内に出てくることになったのだ。家にいないことの多かったデンコーは毎日家(旅館)にいるようになり私はまじめに勉強する習慣がついた。あのまま南薩の田舎でゆる〜く育っていたらこの道に進みたくとも出来なかったに違いない。
命からがらの事故は国や人のその後をも変えるものなのである。
この話を小さい頃から何度聞かされたことか・・・
返信削除私はそんなに詳しくは聞いていないのよねぇ。今度イチオジ側からの話を教えて下さいな。
返信削除近いうちに!
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