18時からの山ンバDr通夜はしめやかに行われ、参列者は医師や息子さんのお猿高の同級生などが多かった。山ンバDrの沖縄出身の兄と姉が来ていた。両親もまだいるらしいがおそらく高齢で来られる状況ではなかったのだろう。
仲間内のDrの通夜とあって知り合いのDrと久しぶりに会えたもののみんな早すぎて意外な急逝に沈痛な面持ちだった。内視鏡グループ以外のDrでは学生時代同期もいてその中のよじげんDrは私の沖縄出張時代の部下で「山ンバDrとはダチでして」とよく聞いていた。その彼がやや遅れて斎場に来て遺影を見つめさらに遺体と対面すると頭を垂れ涙していた。「本当に死んでいた。連絡受けてもなんだか信じられない感覚で・・きつい」と。
ふと、すぐ近くにいたDrが「先生、お久しぶりです。ニシケイですが覚えていらっしゃいますか」と尋ねた。うん?見たことある。「医学部1年の時ちょこっとだけバスケ部にいたんですが」と言われればすぐに分かった。顔もあんまし変わっていない。「ああ、熊高(くまたか=熊本高)出身のニシタカ君だろ。夏休みの西医体が熊本であって熊高の体育館を練習に使わせてもらうときに君にお世話になったよな」ちょうど私がキャップテンの時だった。へーえ、もう30年以上も前だが一瞬であの時に戻れた。名刺もらうも姓が変わっている。「あ、そうですが、近くまたニシケイに戻ります」とのこと、人それぞれ事情がある、それ以上つっこみはしなかった。
内視鏡グループではガッチャンDr、2内関係では反省会病院の坂和Drと久しぶりに会った。で、献花の送り主を眺めていると2内や出水郡の医療関係者の他にお猿高バスケ部OBのものもあった。息子さんがらみだろう。もしかすると山ンバDr自身もバスケ部だったのかな?だとしたら私と同い年だから中学生時代よく試合をしていたことになる。当時光頭中の川中監督はお猿出身ということもありお猿学園にはよく行っていた。お猿の好三監督は引退したはずだがご健在だろうか。医学部時代もお猿高との練習試合があり何かと縁があった。(後日ネットで調べるとくも膜下出血を患うもご健在とのこと、何よりである)
通夜の席は自分のこれまでの人生を振り返る場でもあった・・。
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