2019年6月29日土曜日

<ら抜き表現>

昨日の串木野トリオリーグでの私の調子はまた今一だった。だが1回だけスプリットメイク出来て、その時だけは動画に撮ってもらっていた。何か「取れる!」って予感があったのよねー。

今日は朝から外来で昼から翌日朝まで通しの当直勤務で、これは久しぶり。丸1日のお仕事だ。喘息実は鎮痛剤の副作用、交通事故、過換気症候群、意識障害実は低血糖発作、右下腹部痛実は尿管結石などが救急患者だった。その合間を縫って月末のレセプトを済ませた。

ふう、これでやっと寝れる・・いや、寝られるが正しい表現だ。それは分かっている。でも今日のNHKの番組で投稿者が書いた「〜が見れる」という表現を明らかに間違いなのにそのまま字幕でも「見れる」と表記していた。これには少し驚いた。初めて見た。というのもこの場合は今までは正しく「見られる」と表記していた。民放も同様だった。

これを見て、そろそろ時代も変わりつつあるかもと少し大げさに思った。言葉は時代とともに変わっていく。<ら抜き表現>と言われる、「見れる」、「食べれる」、「来れる」などが徐々に市民権を得て逆にそっちが正しいということになっていきそうってこと。実際、「見れる」「食べれる」「来れる」と使っても意味は通るし、受け身表現の「見られる」「食べられる」「来られる」との紛らわしさも回避出来る。私はそれでもきちんと「見られる」としゃべっているが、それは無知と思われたくないからで忙しい現代においては若干しゃべりにくいと思っている。

数十年後は<ら抜き表現>が正しいということになるだろうから、今日は公共放送が<ら抜き表現>を表記したという時代の変わり目の日ということになるだろう・・やっぱり大げさかな?

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