今日11月3日は「文化の日」だが病院の日直業務を頼まれていて出勤した。出かける時にカールに「あれからぴったし40年だ。少し緊張するよ」と言って出かけた。「ああ、そうね」とカールは応えたが、いったい何のことか?
40年前の今日はある意味私にとって運命の日であった。その日のちょうど午前8時か9時頃、私は交通事故を起こした。自宅で徹夜麻雀をした後、雀友のジャズ魔を下宿へ車で送ってその帰りのことだった。ちょうどその日は今日もそうだが「おはら祭り」の日で、自宅近くの美容室の前に踊り連に参加する女性が車に乗って店が開くのを待っていた。その車に私はぶつけてしまったのだ。集中力が切れていたのかもしれない。その車には連れの男がいた。車から出てきて後頚部をさすりながら「保険に入ってますから・・」云々言ってたいしたことじゃないような物言いだった。
しかし、その日の夕方、女性の兄を名乗る男から自宅に電話がかかってきた。それに父デンコーが出たのだが受話器を持つ手が震えていた。なんと「さっさと30万持ってこいやー」と脅迫する電話だったのだ。後で暴力団とつながりのある男だと分かった。当然警察に相談をしたのだが、直に暴力を振るったり明らかな脅迫と分かる行動がないと動けないとのことだった。
私にぶつけられた女性とその連れの男は頚(くび)が痛いということで某病院に入院してしまった。不思議なのはその女性だが、その日のおはら祭りの踊りには参加していたのだ。終わってから頚が痛くなったらしい。しかし事故そのものは私に責任があるのは明らかで、入院先の病院の診断書にはそれぞれ治療3週間を要すと書かれてあった(当然お見舞いにも行った)。その後も男性は「事故に遭わなければ外国での仕事にも行けたはず」とか事故当初の態度とは裏腹に何かと「誠意を示してくれるよう」しつこく要求してきた。父も周囲の人たちにいろいろ相談したのだが、結局ある程度の金額で手を打ったそうだ。その後この人たちとの関係は何もない。親には相当迷惑をかけてしまった。
その後、私には事故に伴う免停措置が下された。それも90日間の長期免停。ただし免停1度目であれば免許停止処分者講習を受ければ45日間に短縮されるというものだった。よくあるのは30日の免停で講習を受ければ1日で済むというのが多い。しかし60日、90日免停の場合は姶良の講習所で2日間講習を受けないといけない。そもそも事故そのものは軽く、被害者もそんなに重傷でなかったのになぜ長期免停になったのか。それはそれぞれ3週間の治療期間が2人いるとのことで併せて6週間、1ヶ月を超える怪我と計算され、重傷事故と同等とみなされたのだ。
講習日は年が明けて1月の初め頃だった。私は前年からの不勉強がたたり追試再試が続いていた。本来なら試験勉強をしなくてはいけなかったのだが、ちょうど講習日は試験と試験の間の2日間で少しでも免停期間を縮めるべく受講しに行った。講習が終わって最後に警察の人と面接があって処分に対する申し開きをすることが出来た。そこで私は事故の顛末とその後の被害者の取った行動を正直に話した。面接官も少し戸惑ったようだった。きっと事実かどうか確認を取ったのだろう。しばらくして「お話しはよく分かりました。その相手の方との問題も確認出来ましたので90日免停を60日免停に減免します」と言ってくれたのだ。結局免停は30日間に短縮されすでに何日か運転はしていなかったので1月中には運転再開出来た。
しかし相次ぐ試験に追われどうにかクリアしていったものの1単位だけ落としてしまった。結局それがもとで留年してしまった。あの講習2日間のロスは結構痛かったのだ。
その後の学生生活は順調にいったものの、1学年遅れて卒業したことで友人関係その他が大きく変わった。鹿大第2内科に入って30数人もの同期がいてサブアラドDrともそこで知り合った。2年後の初の出張先もいろいろあって1988年前半に沖縄の琉生病院に同期4人で行くことになった。そこでカールと知り合うことになるのだ。タイミングがずれるかそもそも出張先が違えば会うこともなかった女性だった。おはら祭りの日になると、決まって父や母からその日の事故のことが話題に出た。だからカールも今日のことを覚えていたのだ。
家を出て、団地の坂を下るとき、いつもは車はほとんどいないのにカーブのところで続けて3台もやって来て一瞬ヒヤッとした。「慎重、慎重」そう言い聞かせるようにハンドルを握って運転した。無事、病院に着き、一安心した。で、それから後はこの日記を書くまで事故や運転のことはすっかり忘れていたのだった。
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