ただ私はその時は沖縄長期出張中でTVで「すごいことになっている」と眺めるだけだった。ピッピDrは「大学病院にいましたから私は何もなかったですけど、ちょうど当直に行く必要のあったDrたちは車が浸かったって言ってましたね」と語ってくれ、ちょうど医局にやって来た眼科のワラノDrにも「8・6の時はどうしてました?」と尋ねてみた。するとだ、私らの期待以上の話が彼にはあった。
「私は実家が草牟田なんで、家は2m浸かってしまって2階に避難していました」と。Wikipediaで「8・6水害」を調べると、「・・甲突川沿いを通る国道3号は鹿児島市草牟田付近で深さ約2mの水に浸かり、鹿児島市小山田町付近も渓岸浸食により、大きく陥没するなどして長期間にわたって通行止めとなった」と一番浸水の大きかった地域として書かれている。「どんどん水が上がって来るんで怖かったですよ」「2階の窓から見ていると、お爺さんがですね、上流から流されて来ました」「はあ?」「畳に必死につかまって・・」「それで」「それでそのまま流されちゃたんですがどうなったかは分からないです。どこかに引っかかって助かっていたらいいんですが」
はあ、何とリアル、実際に体験した人でないと出てこない話だ。家族の被害はなかったが車3台すべて廃車になったとのこと。1階はその後来た台風でまた浸かったそうだがその時はもう驚かなかったとか。家は建て直さずリフォームしたんだそうだ。「反対岸の原良あたりは区画整理にもなってすごく上等に生まれ変わりましたが、草牟田はそうはならず昔のままです。1階を1mくらい底上げして建て直すくらいで河川工事があったけどまたあれくらいの水害になれば浸かるかも・・」と微笑んでいた。3号線沿いは1階を駐車場にして2階に住居を構えるようにしているのをよく見かける。一度でもひどい目にあったら何らかの対策はするわな。
また、草牟田近くの江戸時代からの五石橋の一つ新上橋は流失してしまった(最下流の武之橋も)。近くに住む私の友人バンバ君は「何か大きな音がしてトラックかコンテナのようなのが当たって破壊されたみたいよ」と当時電話した私に語ってくれた。また「今な、このあたりは臭いがひどいぞ。ベトナムの臭い川のような・・」とやや差別的な表現をしていた。私は東南アジアには行ったことがないのでどんなものかは知らない。でもワラノDrが「ああ、あの下水のような臭いですね。分かります」とのこと。これも実体験した人同士でないと分からないものだ。
話はその後、五石橋に移り、廃橋問題が本格化して無事だった玉江橋、西田橋、高麗橋はすったもんだの末撤去され、新たに鹿児島水族館近くの石橋記念公園に移設されてしまった。三口川Drは「石橋公園は行きましたよ」と子どもを連れて遊んだことがあるそうだ。私も一度だけ子連れで行ったことがある。現地保存にこだわった人たちもいたが、これで良かったと思う。で、私が「石橋を造った確か岩永三五郎だったっけ、浮かばれるなぁ」と言うと、ピッピDr始め「うん?誰ですか、それ」という反応だ。「あれ、知らない、岩永三五郎だったはずよ、熊本の石工で、江戸時代の」「知らない」「聞いたことない」「えー、知らないかなぁ。小学校の社会の教科書にも出ていた気がするけど」私は後から医局に来た信号Drにも「知りません?」と尋ねたが「聞いたことがあるような」ぐらいでみんな知らないようだった。うーむ、ネットで確認すると間違いなく岩永三五郎だった。ちなみに「薩摩の秘密を知りすぎて殺されたのでは?」という質問には、無事今の八代に帰郷出来たそうでなによりであった。100年以上も現役の橋として使われ続けた偉大な石橋を造った偉人を忘れてはなるまいナ。
(追記:実は「肥後の石工(1965年)」という有名な児童文学があり、私は読んだことはないがその主人公が岩永三五郎である。薩摩側の暗殺問題が物語に重要な役割を果たし三五郎の仲間は皆殺されたということになっているが事実は違うようだ。ただ、そうした問題は現実にもあって三五郎は部下を何かと理由をつけて早目に故郷に帰していたそうである。また「石橋には要になる石を取り外すと全体が崩れ落ちるような特殊な仕掛けが施されていた」とよく言われる話も創作だと思われる)
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