帰宅後、食事も終わりくつろいでいると、てげてげ先生からメールが入った。先生からは定期的にメールが入る。今日は新年の挨拶で「飛躍の馬」とのサブタイトルが付けられていた。
「新年おめでとうございます。 ここ数年、いろんなことでお世話になっております鹿児島市谷山の浄土真宗本願寺派妙行寺の住職さんに新春のご挨拶に伺いましたら、(・・中略)と思った次第です。またこれは悲しいことですが、私の学生時代から社医研の仲間でした草野君(同じ昭和22年生まれ)が、握り寿しを喉に詰まらせて急死したということです。彼をよく知る仲間からは「いかにも彼らしい最期」と言われますが、私たちの年になるとちょっとしたことが命にかかわります。息子さんが「好きだった寿司で・・・。本望だろう。錦江湾に散骨したいと思っています」ということでした。お互い、本当に気をつけましょう。
それでは皆様方にとりましていい1年でありますよう、願っております。」
ううん?草野君だって?社医研ということは鹿大医学部のサークルだから、私の大学第二内科時代の先輩Drの草野健先生のことじゃなかろうか。古い医師会名簿で生年月日を調べてみた(最近のは生年までで誕生日は載っていない)ら、先生は昭和23年の2月の早生まれだった。てげてげ先生が同年の昭和22年生だと思ったとしても不思議ではない。それでメールが来て10分後くらいに返信を送った。
「明けましておめでとうございます。ええと、草野先生というのは「草野健」先生のことでしょうか?昭和23年2月生まれで第二内科で私の直接の上司だった先生なんですが・・。」
すると、ものの数分でてげてげ先生から電話がかかってきた。メールを多数送信したら真っ先に私から返信があったからだそうだ。そして亡くなったのはやはり草野健先生で間違いなかった。私が部下であったのは初めて知ったのだとか。私もお二人が学生時代からの知り合いでサークル仲間だったとは今回初めて知った。話を聞くに、学生時代から彼の語る話は「まあ話半分に聞いていたほうがいい」とか言われていたそうで、それは私も何となく分かる気がした。「ただ、憎めない男でねぇ」と懐かしむ口調だった。あと、草野先生はラ・サール高出身で、2浪の末鹿児島大医学部に合格したが、そこから医師になるまでに12年かかったという経歴を話してくれた。ラ・サール同期には伊藤裕一郎元鹿児島県知事や詩人の岡田哲也氏などがいる。
卒業に時間がかかった話は私も少し聞いていて、団塊の世代に多い学生運動にハマったということだった。公安に目を付けられ、例えば喫茶店にいる時近くにいた彼らに挑発するような言葉を浴びせられたりしたとか、同じ頃鹿大農学部に在籍していたあのテルアビブ空港乱射事件の岡本公三とも意見を闘わしたこともあったとか(調べると岡本も昭和22年生まれで京大目指すも叶わず2浪して鹿大に入り、草野先生とは学部は違えど同学年だった)はよく聞いたエピソードだ。ほか「自分は本中毒で常に何かを読んでいないと気が済まない」「戦後の日本の生活や環境がどんどん良くなっていくのを目の当たりにした」「鹿児島の中でも地域による差別意識というのがあってな、特に鹿児島市地域のかつての武士連中は田舎に住む郷士を見下す傾向があった」など飲み会の席で聞いたりした。
最後の話など確かにそれら地域をさげすむ言い回しが現代にも残っていて私も聞いたことがある。そこで草野先生、「ただし出水だけは貶(け)なさなかった。出水兵児(いずみへこ)って言ってな。出水は肥後との国境だったのでその警備にあたって責任が重かったからだ」とも語っていた。当時、なるほどと思ったが、今日聞いたラ・サール同期だという伊藤裕一郎&岡田哲也氏は出水出身で、もしかしたら彼らからそんな話を高校生だった草野先生は聞いていたのか・・かな。今となってはそれを本人に確かめる術はなくなった。オンラインで胃癌検診の講演会での挨拶などでしか現況は知らなかったが、特に闘病中ということでもなくまだまだ活躍出来ていたはずなのにとても残念だ。まだ第二内科からの訃報メールは来ていないし新聞に死亡広告も出ていないがすぐに世間には知れるだろう。先生のご冥福をお祈りいたします。(翌1月7日、予想通り二内科メールもあり死亡広告も南日本新聞に出ていた)
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